久世広周 (久世廣周) 関宿藩主で航海遠略策を推進した老中


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 久世広周は、1819年4月12日に江戸幕府の旗本・大草高好(3500石)の次男として生まれた。

 父・大草高好(おおくさたかよし)は、長崎奉行、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行、江戸北町奉行などを歴任。

 1830年8月20日、第6代の関宿藩主・久世広運が32歳で亡くなると、後継者がいなかった関宿藩主に、旗本の次男が注目を浴びたようで、1830年10月12日、末期養子として家督を継ぎ、第7代・関宿藩53000石の藩主となった。
 1832年10月1日には、将軍・徳川家斉に拝謁し、12月16日、従五位下隠岐守に叙位。

 その後、1838年に大和守、奏者番となった。
 関宿藩の久世家は幕府の要職を代々歴任していた為、出世して行く。

 1843年には、寺社奉行を兼任し、1848年、西丸老中となり大和守に還任した。

 1849年、侍従となると、1851年、幕府の老中に就任した。
 正室は福山藩主・阿部正精の娘(阿部正弘と姉妹)で、1854年に嫡男・久世広文が誕生している。

 1853年、浦賀にペリー提督が来航すると、老中としては阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たった。
 尊王攘夷派が過激化すると安政の大獄となり、橋本左内吉田松陰らが処刑されるなど、大老・井伊直弼の強圧な処罰方針に反対したため、井伊直弼の怒りを買って罷免されている。

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 1860年、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、安藤信正の推挙を受けて閏3月1日、1万石加増されて再び老中に就任すると、4月28日には老中首座となり「久世・安藤政権」を築き、幕府の公武合体政策を推進し、孝明天皇の妹・和宮を14代将軍・徳川家茂の正室に迎えた。

 政情不安が進む政局の安定化に努める一方で、長井雅楽の航海援助なども行なったが、1862年1月15日、安藤信正が坂下門外の変で尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受け負傷。
 それを機に久世広周(くぜ ひろちか)は4月11日に老中を罷免されると、公武合体(航海遠略策)の失敗などの責任を問われて連座し、病を理由に6月2日老中職の辞職願が受け入れられて失脚した。

 1862年8月16日、強制的に隠居させられると、家督を嫡男・久世広文に譲ったが、58000石に減封され、さらに11月20日に永蟄居処分に下されるや、さらに減封されて48000石となった。

 1864年、失意のうちに関宿城内の客殿(新御殿)で死去。享年46。

 久世家は代々老中を輩出した家柄であったが、最後の老中となった。
 関宿城の客殿は、のちに関宿町実相寺に移築されている。

 子の久世広文は、藩内の佐幕派に担がれて、上野の彰義隊と共に新政府軍と戦ったが、下総佐倉藩を頼って逃れている。

 関宿城は、明治5年に明治政府によって廃城が決定し、数年のうちに取り壊された。

 

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