堀田正睦  佐倉藩主で幕末にハリスなどと交渉した幕府老中


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堀田正睦(ほったまさよし)は、1810年8月1日生まれの幕末の佐倉藩主。
父は堀田正時、母は源田光寿の娘。

1811年に父が亡くなり、藩主は、父の兄の子である堀田正愛が継いだ。
そして、堀田正睦はその養子となる

1825年、堀田正愛が病死すると、老臣・金井右膳らは後見していた近江堅田藩主・堀田正敦の子を藩主に擁立しようとしたが、当の堀田正敦が断り、堀田正睦が16歳で下総佐倉藩11万石の第5代藩主となった。
藩主にはなったがまだ若輩でもあったことから、佐倉藩は老臣・金井右膳(金井忠倫)が専制を振るった。
しかし、金井右膳が1829年に死去すると、藩政改革を断行。
藩校を拡充して成徳書院とし蘭学などを奨励。佐倉は関東の蘭学の拠点となった。

その後、江戸幕府の幕政にも参加し、奏者番、寺社奉行、大坂城代を経て、第11代将軍・徳川家斉没後である1841年には老中に就任。
老中首座・水野忠邦の天保の改革を推進したが2年で失敗し、1843年4月、病気と称して水野忠邦と共に辞職。

ペリー提督が来航した後、1855年10月に老中に復帰。

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1856年、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名した。

1857年に阿部正弘が死去すると、堀田正睦は名実ともに幕閣の最高責任者となった。

1858年、ハリス日米修好通商条約の調印を求めて来日すると、幕府主導による開国・貿易を実施することを決意。
川路聖謨、岩瀬忠震と共に上洛して孝明天皇から条約調印の勅許を得ようと試みたが失敗。
将軍継嗣には徳川慶喜を要望するとの異例の内勅を受けて江戸に戻った。

その後、徳川慶喜擁立に向けて奔走したが、井伊直弼の大老に就任すると勢力を失って失脚し、1858年6月に登城停止処分となり老中を罷免された。

翌1859年に家督を四男・堀田正倫に譲って隠居するも、桜田門外の変後である1862年11月20日、朝廷と幕府の双方から命令される形で蟄居処分となり、佐倉城にて蟄居を余儀なくされた。

1864年3月21日、失意のうちに佐倉城・三の丸の松山御殿において死去。享年55。
蟄居処分は没後の3月29日に解かれたと言う。

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