水野忠邦 天保の改革の真相を解説 意気込みだけは良かった?


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水野忠邦(みずの-ただくに)は、寛政6年6月23日(1794年)唐津藩主、水野忠光の次男として生まれ、江戸幕府の老中として天保の改革という政治を行った人物である。
この頃の江戸幕府は外国からの脅威、自然災害、物価高騰など数々の問題が山積していた。
言ってみれば、幕府が開かれた頃の社会構造をいかに変え、どう対応していくのか、という転換期だったように思える。
そこに忠邦は改革を行って失脚し、幕府は幕末を迎えることになるのだが。
水野忠邦の人物像と、天保の改革はどのようなものだったのか。

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天保の改革とは

まず、改革の基本理念を押さえておきたい。
結論を言うと忠邦の改革は、古き良き、強い徳川時代の復古を目指したもので、過去の江戸時代の改革、享保の改革、寛政の改革を踏襲したものである。
その過去の改革に共通する点は、財政改革にほかならなく、その財政を立て直すための術としては、農業と倹約である。
米の収穫を増やして税収を増やしつつ余計な支出を抑え、財政の立て直しを図ったのは過去の改革と共通するところだ。
忠邦の農業改革についての部分は後述するが、倹約令に関しては衣食を含む生活全般をチェックし、豪奢な生活をしたという理由で歌舞伎役者、七代目市川團十郎(五代目市川海老蔵)が、江戸追放という処罰を受けている。
改革当初は、十一代将軍徳川家斉の華やかな大御所政治の後始末が課題であったため、確かに仕方がない側面もあった。
また、質素倹約を強制することとは別に、風俗取締り令は非常に難しいものであり、江戸市民の娯楽の代表格である歌舞伎を統制した件に関しては、時代劇で馴染みのある町奉行、遠山景元も上司の忠邦に意見書を提出するという事態に至っている。
このように、忠邦の改革は強制力を持った性質であることがわかるが、それは強い徳川時代の威厳の復古を目指した忠邦の強い意思を反映したものであると言ってもいいかもしれない。

浜松藩への転封

忠邦は、兄が早くに亡くなったこともあり、文化9年(1812年)父から家督を譲られ唐津城主となっている。
忠邦は本来、出世願望が強かった人物と言われていて、猟官運動(賄賂)による働き掛けで奏者番になったとも言われる。
しかし、唐津藩はそれ以上の昇格は望めないという慣例だったため、忠邦は多額の賄賂を使い、浜松藩へ国替えという離れ業をやってのけ、寺社奉行、京都所司代を経て天保10年(1839年)老中首座に就任する。
それまでに至るには、家臣が忠邦を諌め自害をしているのだが、敢えて良く言えば、意気込みだけは素晴らしかったと言っておきたい。

株仲間の解散

この時の江戸城は、家斉の大御所政治の最中で、忠邦は老中としての手を打てないでいたのだが、家斉死去に伴いようやく忠邦の改革が開始される。
まず、忠邦が勢い良く打ち出した政策は天保12年(1841年)に出された株仲間の解散である。
この時の江戸は、物価高騰が大きな問題になっていた。
忠邦は、この物価高騰の原因が株仲間にあるのではないかと考えた。
株仲間は、幕府の許可を得た同業組合のようなもので、株仲間に加入すると冥加金といわれる税金を納める代わりに商人に独占販売を認めさせた。
忠邦は、この株仲間を解散させ自由競争させることにより物価の安定を図る。
しかし、物価高騰の原因は株仲間ではなく、江戸に商品が入りづらくなってきていたことにあった。
つまり、この頃は江戸で物を販売しなくても近隣の町で商売ができる時代になっていたことを理解していなかったのであろう。
解散の結果、今までの単純化されていた流通が複雑になり、さらなる物価高騰を招く結果になってしまった。
株仲間の解散は失敗に終わり、江戸の景気を大きく減速させるだけの政策だったと言って良い。

外国船の脅威

江戸時代後半の日本を取り巻く国際情勢は非常に複雑で、幕府も外国船の対応には非常に苦慮をしている。
外国船と言えばペリー提督黒船が有名だが、それよりも以前に外国船が日本近海に出現していて、色々と事件(幕府から見て)を起こしている。
この頃の外国船に対する幕府の対応を簡単にまとめておきたい。
寛政4年(1792年)ロシアのラクスマンが根室に来航、通商を求めたが老中松平定信は、長崎でないと応じかねると拒絶した。
なのでロシアは言われるまま、文化元年(1804年)レザノフが長崎に来航し、通商を再び求めたが定信失脚の後だったこともあり拒絶され、幕府は上手く逃れる形となる。
外国船の脅威はロシアだけにとどまらなかった。
文化5年(1808年)イギリス船のフェートン号が、オランダ国籍と偽り長崎へ侵入する事件を起こしている(フェートン号事件)。
この事件を重く見た幕府は、文政8年(1825年)に異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を発令し、鎖国を貫く強い姿勢を見せる。
清とオランダ以外は理由を問わず打ち払うように命じた法令である。
この異国船打払令は、外国人が勝手に上陸するなど幕府を困らせていた背景があるのだが、そんな理屈が通用しなくなった事件が起こった。
天保8年(1837年)に起こったモリソン号事件である。
モリソン号はアメリカ船で、日本人漂流民を送りとどける目的で現れたところ異国船打払令によって砲撃されている。
モリソン号は非武装だったこともあり、内外から批判を浴びる要因にもなった。
高野長英や渡辺崋山が逮捕された蛮社の獄(ばんしゃのごく)の発端にもなった事件であった。
幕府はこのように外国船に対しては非常に強い姿勢を見せてきたが、清がアヘン戦争で負けたのを見て異国船打払令をゆるめ、外国船に燃料や水などの支援を認めた薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を天保13年(1842年)に発令した。
薪水給与令はこれ以前にもあったものだが、忠邦の改革中に復活させたものであり、このときの幕府は外国に前後を塞がれた様子であったことがわかる。

天保の大飢饉と人返し令

天保の大飢饉は、大凶作のため多くの餓死者が出ており米価高騰も引き起こしたので、一揆や打ちこわしが多発し大阪では大塩平八郎の乱(おおしお-へいはちろうのらん)が起こるなど江戸時代にしばらくなかった反乱が幕府を揺るがし始める。
一方農村部でも飢饉の影響は大きく、村を捨て江戸に出稼ぎや、引っ越しなどをする農民が多く流出していた。
そこで忠邦は、天保14年(1843年)人返し令(ひとがえしれい)を発令。
江戸に入った農民を強制的に農村へ返し、農業の復興を試みたものであったが失敗に終わる。
これは財政を立て直すための政策にほかならないが、米による税収に頼った幕府の財政が、立ち直る術をなくしたことを意味し、江戸時代の支配体制が成り立たなくなってきたことを物語る。

改革の目玉だったはずの上知令

上知令(じょうちれい)は、忠邦が天保14年(1843年)に発令したものである。
これは江戸、大阪の十里四方に当たる大名や旗本の領地を幕府に返還させ、その優良な土地を幕府が管理し、主に税収の増加を狙った政策である。
あと、そこを幕府直轄地にすることで海防上の利点もあったと思われる。
この上知令は、幕府の威厳を試されるものだったが、十二代将軍徳川家慶はじめ、幕閣、庶民に至るまで賛同されず、結局実施されることなく終わってしまった。
上知令の失敗は、忠邦失脚の直接的な要因だったといわれており、強行に政策を押し通す余り、側近の部下にも裏切られる事態に陥り、同年老中を罷免され忠邦の改革は、わずか二年ほどで終わりを見た。

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その後の忠邦

江戸市民の水野忠邦の改革の評判は、とにかくひどく失脚の時には、市民に江戸屋敷を襲撃されるという前代未聞の出来事があったりで、心身共に疲れたのか病気を理由に欠勤を繰り返すようになり、隠居謹慎という処分で忠邦の政治人生は終わった。
そしてお家は、長男水野忠精に継がせることは許されたのだが、山形藩に転封を命じられ、事実上の左遷で幕末を迎える。
忠邦の国替えまでして日本を変えるという気概は個人的には評価したいが、これまで通りの江戸幕府の政治では誰がやっても結果は似たようなものだったはずである。
貧乏くじを引いてしまったようで気の毒だ。
水野忠邦、嘉永4年(1851年)2月10日、死去、享年58歳。

(寄稿)浅原

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