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上野の成り立ち
江戸幕府が開かれる以前から、現在の上野恩賜公園がある上野山は、忍岡(しのぶがおか)と呼ばれ、江戸幕府が開かれた頃は、伊賀上野を領国とする藤堂高虎などの下屋敷が置かれていた。
上野という地名は高虎の領国である伊賀上野から付けられたという説がある。(諸説ある)
幕府は、上野に徳川家の一大寺院の建立を発願し、高虎達に屋敷を返還させるという形で、その跡地に寛永寺を建立した。
寛永寺は天台宗の寺院で、山号は東叡山、創建は寛永2年(1625年)、徳川家歴代将軍の六人が眠っており住職は代々、出家した皇族が就き輪王寺宮(りんのうじのみや)と称し、東叡山寛永寺、比叡山延暦寺、日光山輪王寺を統括するほどの強大な力を持って、常に徳川将軍家の権勢を象徴する存在として江戸城を守り続けた寺院であった。
明治時代から現代の上野は、日本初の公園として博覧会の開催や博物館の開館などを見るように、時代の変化を受け入れてきた拠点にもなったと言える。
現在に至っては美術館や動物園に行列ができたりと歴史の移り変わりを空気で感じさせてくれている。
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寛永寺の大伽藍
徳川家康は幕府を置く際に、天海の助言があって江戸を選んだとされている。
天海は家康の後半生の政策に大きな影響を与えた天台宗の僧で、寛永寺の建立を発願したのが天海だった。
天海は幕府の、まさに地盤というべき江戸の町の都市計画を担った。
その都市計画の柱が寛永寺の建立だった。
江戸の町を設計するにあたり、鬼門、裏鬼門を重視し、京の町の鬼門を比叡山延暦寺が護るように、江戸城の鬼門に東叡山寛永寺を配置して、不忍池を琵琶湖に見立てた。
つまり、京の町を模した町を江戸につくったのである。
現在の噴水広場辺りにあった根本中堂を中心に、動物園内に見る五重塔、清水寺を模した清水観音堂、歴代将軍が眠る霊廟など数々の大伽藍で鬼門を封じると同時に、政治的に寛永寺が栄える以上は徳川の世は揺るがない事を天海は示す必要があったと思われる。
上野は天海が亡くなった後も、広小路の整備などで発展し、庶民からも親しまれる門前町となった。
聖と俗が隣合う上野
上野は江戸屈指の盛り場となっていった。
盛り場は今で言う歓楽街だが、歓楽街と言えば飲食店も多いと思うが、そういう場には必ず俗というものはあって、付き物であったらしい。
浅草に吉原があるのと同じで、上野にもそれと似た場所があって、人や金が集まる所に商売があるといったところか。
一方で、歴代将軍の祥月命日などには在職する将軍が寛永寺へ参拝するという行事があるため、将軍御成りの際には辺りは静まりかえる。
そんな聖地と俗地が混ざり合うというより、隣関係を築いてきた所なのかもしれない。
上野戦争
西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城によって江戸総攻撃は避けられたが、抗戦派の幕臣や一橋家の家臣は彰義隊を結成し、寛永寺に立て籠った。
旧幕府軍は、その時の輪王寺宮を擁立して徹底抗戦の構えを見せた。
対するのは薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍で長州藩士の大村益次郎が軍を総指揮した。
薩摩藩の隊を率いるのは西郷で、激戦が予想された寛永寺の正面に当たる黒門口を指揮した。
慶応4年5月15日(1868年)、上野戦争(うえの-せんそう)の戦闘は開始された。
彰義隊は、西郷率いる薩摩藩隊に黒門を突破され、不忍池を越えてくるアームストロング砲や四斤山砲の威力に成す術もなく壊滅。
彰義隊は敗走、わずか半日たらずで勝敗は決した。
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旧寛永寺の貴重な文化財
寛永寺の大伽藍は上野戦争により焼き尽くされたのは残念だが、清水観音堂や上野東照宮をはじめ、輪王寺宮の住まいだった本坊の表門、四代将軍徳川家綱の厳有院霊廟勅額門、五代将軍徳川綱吉の常憲院霊廟勅額門など奇跡的に残ったものもある。(霊廟は昭和の空襲で多くが焼失)
また戦闘が終わった際、円通寺という寺の当時の住職が、放置されている彰義隊士の遺体を火葬し供養した縁で円通寺に黒門が移築されている。上野とは少し離れているが興味のある方は是非見に行っていただきたい。(荒川区南千住1-59-11)
長い時間、鬼門を護り続けた寛永寺が、徳川時代が終ったことによりひとつの役目を終えた。
(寄稿)浅原
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