中谷正亮  松下村塾に多くの志士を誘った最年長者


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 中谷正亮(なかたにしょうすけ)は、1828年生まれの長州藩士。中谷附忠兵衛、中谷茂十郎とも呼ばれる。

 父は通称・忠兵衛又は市左衛門、章貞。

 幼い頃には福原冬嶺から学ぶと、明倫館でも良く学び秀才と称された。

 中谷正亮は長州藩の盾吏として活躍し、長州藩校・明倫館の拡大工事の際には監督も務めた。

 1851年、藩主・毛利敬親が江戸に赴いた際に江戸遊学を命じられて同行すると、2歳年下の吉田松陰を支援している。
 吉田松陰は常に中谷正亮の精勤を尊敬していた。

 中谷正亮は萩に帰国すると明倫館の居寮生になったとされる。

スポンサーリンク


 吉田松陰が野山獄に投獄されると、度々訪ねており、夜遅くまで激論を交わす事もあったと言う。
 そして、吉田松陰から教えを乞うようになると、松下村塾の最年長者として高杉晋作久坂玄瑞ら多くの志士を誘ってた。

 すなわち、久坂玄瑞と杉文(吉田松陰の妹)を引き合わせた人物でもあり、吉田松陰から頼まれて、久坂玄瑞に縁談を持ちかけたのだ。
 最初、久坂玄瑞は「男前」に合う「美人」を望んだことから、返事をしなかったが、中谷正亮より「君は貌の良否で嫁撰びするのか」と議論となった末に、久坂玄瑞が杉文との結婚を受け入れたという逸話がある。

 1858年3月には九州に遊学すると6月には京都にて久坂玄瑞と共に尊王攘夷活動を行い、9月に江戸に入った。
 当時の江戸には桂小五郎・尾寺新之丞・高杉晋作・飯田正信・入江九一・吉田栄太郎・松浦松洞らと時事を論じた。

 1859年2月、山口に帰国しており、吉田松陰の死刑後は、松下村塾を監督・指導し、長井雅楽の弾劾書をつくって、久坂玄瑞らと公武合体策に反対している。
 1861年末には一燈銭申合に参加。
 1862年3月には、兵庫まで出兵し、薩摩藩士・有馬新七らの義挙にも参加を約束している。
 しかしこれは寺田屋の変が起こり実現しなかった。
 その後、藩命により江戸に赴くものの、急病となり1862年閏8月8日に死去。享年32歳。

 墓は東京の松陰神社。

 なお、中谷茂十郎は中谷正亮の甥で、松下村塾にて学んだ際、塾舎増築にも貢献している。

 →松下村塾 (しょうかそんじゅく) とは? 松下村塾の歴史と幕末の志士
 →東京の松陰神社のご紹介はこちら

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

Loading Facebook Comments ...

メールでお知らせ

メールアドレスを記入して購読すれば、新規記事追加をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る