久坂玄瑞 (詳細版) 禁門の変にて短い命を閉じた長州藩の英雄


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久坂玄瑞

 久坂玄瑞は1840年、長門国萩平安古(ひやこ)本町(現・山口県萩市)で生まれた。幼名は秀三郎。
 父は25俵取りの萩藩医・久坂良迪。母は久坂富子で三男であった。(二男はすでに早世していた)

 幼少の頃から萩城下の寺小屋・吉松塾で四書の素読を受け、高杉晋作とも机を並べた。

15歳で天涯孤独の身となるも医師として自立

 長州藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くした。
 20歳年上の優れた医者であり蘭学者でもあった兄・久坂玄機の影響を受け成長した久坂秀三郎(久坂玄瑞)であったが、翌年に兄・久坂玄機も病没。
 兄・久坂玄機は藩主から海防策の立案を命じられ、病床の中、徹夜で意見書を執筆した無理がたたって、筆をもったまま絶命したと伝わる。
 更に、その僅か数日後に父も他界し、15歳の春に久坂秀三郎は天涯孤独の身となった。

 不幸が続いた結果、久坂秀三郎(久坂玄瑞)は藩医・久坂家の当主となり、頭を剃って医者となり、名を久坂玄瑞と改めた。
 身長は六尺(約180cm)ほどの長身で、声が大きく美声であり、萩で随一の美男子だったと伝わる。

 16歳になった頃には、早くも久坂玄瑞の才知は長州藩の内外に知れ渡り、成績優秀な者が寮生として藩費で寄宿舎に入れる制度を活用して、17歳で久坂玄瑞は好生館の寮生となった。

 1856年、中村道太郎のすすめで、藩に願い出て九州を3ヶ月間遊学。
 熊本にて宮部鼎蔵を訪ねた際、吉田松陰に従学することを強く勧められる。
 久坂玄瑞はかねてより、亡き兄の旧友である月性上人から吉田松陰から学ぶことを勧められており、この遊学から帰国すると、すぐに松本村で謹慎中の吉田松陰への手紙を書き、吉田松陰の友人・土屋蕭海を通じて届けてもらった。しかし、この手紙のやりとりはかなりの激論となったと言う。

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吉田松陰との手紙での激論

 まず久坂玄瑞が吉田松陰に送った手紙の内容は「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし」という、強硬な外国排撃論であり、敬慕する吉田松陰の賛辞を得ようというものであった。
 しかし、吉田松陰は返書で「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない。私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。往昔の死例をとって、こんにちの活変を制しようなど笑止の沙汰だ。思慮粗浅とはこのことをいうのだ。つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるがよい」と痛烈な言葉を書き連ね、久坂玄瑞の論を酷評した。
 これは、吉田松陰が久坂玄瑞の並外れた英才ぶりを手紙で感じ喜び、あえて批判を与える事で、大いに鍛えてやろうという下心があったようで、久坂玄瑞を紹介した土屋蕭海への手紙では「久坂生、士気凡ならず。何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。もし面従腹背の人ならば、僕が弁駁は人を知らずして言を失うというべし。」と「一激して大挙攻寇」すると吉田松陰は記載している。
 吉田松陰の期待通り、久坂玄瑞は大いに憤激し猛然と反論した。
 「誠(玄瑞)の大計を論ずるは、憤激の余り出づるのであって、強く責めるにはあたるまい。今、義卿(松陰)の罵言、妄言、不遜はなんと甚だしいことぞ。誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。もし果たしてこの如き言をなす男だとすれば、先の日に宮部生が賞賛したのも、誠が義卿を豪傑だと思ったのも、各々誤ったようである。紙に対して、憤激の余り覚えず撃案した。」と吉田松陰宛てに書いている。

 この手紙が届くと吉田松陰は約1カ月の間のあいだをあけてから筆を執り「あなたは僕があなたに望みを託し、あなたの成長を願っているのを察しないで、相変わらず空論を続けている。そのことを僕は大いに惜しんでいる。なるほど、あなたのいうところは滔々としているが、一としてあなたの実践からでたものではないし、すべて空言である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめて、歴史の方向を見定めて、真に、日本を未来にむかって開発できるように、徹底的に考えぬいてほしい」と返書した。しかし、今度も玄瑞は自分の理論が誤っていると認めなかった。説得できないとさとった松陰は、今度はうってかわって玄瑞の理論を認めたうえで、「あなたが外国の使いを斬ろうとするのには名分がある。今から斬るようにつとめてほしい。僕はあなたの才略を傍観させていただこう。僕の才略はあなたにとうてい及ばない。僕もかつてはアメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、無益であることをさとってやめた。そして、考えたことが手紙に書いたことである。あなたは言葉通り、僕と同じにならないように断固としてやってほしい。もし、そうでないと、僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。あなたはなお、僕に向かって反問できるか。」と返事した。

 この書簡の往復を通して、吉田松陰は、自分の発言がどんなに重要なものか? 自分の発言には、自分の生命をかけて必ず果たさねばならないことを久坂玄瑞に教えた。
 吉田松陰の実践と思索に裏付けられた強い言葉に、こうして18歳になった久坂玄瑞は翌年1857年の晩春、正式に松下村塾に弟子入りし、幼な友達の高杉晋作にも入門を勧めた。

 松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉晋作・吉田稔麿入江九一と共に「松門四天王」と言われた。
 吉田松陰は、久坂玄瑞を長州第一の俊才「防長年少第一流の男」と評し、高杉晋作と競わせて才能を開花させるように努めた。
 そして、1857年12月5日、吉田松陰の妹・杉文(15歳)と結婚した。

 なお、吉田松陰が中谷正亮を介して、久坂玄瑞に杉文との結婚を打診した際、久坂玄瑞は一度断ったとされる。理由は「器量が悪いから」である。

尊王攘夷へ長州藩の中心人物となる

 1858年、久坂玄瑞は医学の勉強の為、京都に赴くと梁川星巌、梅田雲浜らと会い国事を論じた。次いで江戸に遊学すると同じ長州藩の村田蔵六に入門し、各地の志士と交流。
 そんな折り、国許より吉田松陰が老中暗殺を画策しているという報を聞き、同じく江戸遊学中の高杉晋作ら松下村塾門下生連名で、吉田松陰に対し計画中止を促した。これに対し松陰から所見の違いから絶交を言い渡されてしまう。

 翌1859年に安政の大獄により、吉田松陰が処刑された後は、長州藩の尊王攘夷運動の先頭に立ち精力的に活動した。
 但し、久坂玄瑞はある友人に宛てた手紙で「近頃僕は西洋のことを記した本を読んでいるが、彼らは城下はもちろん、村落に至るまで病院や救貧院を完備し、人心を籠絡しているという」「たとえ我々に巨砲や大艦があっても、それだけでは真の意味で西洋人に勝つことはできまい」「攘夷にははじめから成算などない。ただ肝心なのは、国家の方針を定め、大義を打ち立てることだ」と、大局を冷静に見極めて判断し、尊王攘夷が難しいことも認めている。

 また、吉田松陰と杉文の兄・杉梅太郎宛ての手紙では「長州藩を代表しているので、会合の酒代をつい支払してしまうので、金銭を送って欲しいと」訴えてもいる。

 1861年12月、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深め、義挙をなす準備の為、久坂玄瑞は「一灯銭申合」を創設した。参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔山縣有朋ら24名。

 長井雅楽の「航海遠略策」によって藩論が公武合体論に傾くと、1862年4月、同志と共に上京して、長井雅楽の弾劾書を長州藩に提出。
 1862年6月、久坂玄瑞は長井雅楽の要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井雅楽への訴状も兼ねて待罪書を提出した為、京都にて謹慎となった。
 しかし、桂小五郎らは、攘夷をもって徳川幕府を危地に追い込む考えで、萩藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説して長井雅楽を失脚させることに成功。
 久坂玄瑞は謹慎中、後に志士の間で愛読されることとなった『廻瀾條議』『解腕痴言』の二冊の時勢論を起草し、藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。
 こうして、長州の藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された。なお、長井雅楽は翌年2月に自刃を命ぜられている。

 1862年9月、謹慎を解かれた久坂玄瑞は早速に活動を開始。
 薩長土の三藩有志の会合に出席し、攘夷御下命の勅使を激励する決議を行った。
 また、9月末には土佐の坂本龍馬、福岡孝弟らと面会。三藩連合で近衛兵を創設する件を議論している。
 10月、久坂玄瑞は桂小五郎とともに、朝廷の尊王攘夷派の三条実美・姉小路公知らと結び、公武合体派の岩倉具視らを排斥して、朝廷を尊攘化した。
 そして同年10月、徳川幕府へ攘夷を督促するための勅使である三条実美・姉小路公知と共に江戸城に下り、幕府に攘夷の実行を迫った。
 これに対し、将軍・徳川家茂は、翌年上京し返答するとした。

英国公使館焼討事件と外国艦船砲撃事件

 1862年秋、江戸に到着した久坂玄瑞は高杉晋作らと合流。
 上海帰りの高杉晋作は外国人襲撃を画策していたが、久坂玄瑞は「そのような無謀の挙をなすよりも、同志団結し藩を動かし、正々堂々たる攘夷を実行するべき」と主張し、高杉晋作と斬るか斬られるかの激論となった。
 それを井上聞多が仲介し、結局、久坂玄瑞も受け入れて長州藩志士11名が、アメリカの横浜公使襲撃を決行することとなった。
 しかし、報せを聞いた長州藩世子・毛利定広や三条実美らの説得を受け中止に終わっている。
 その後11名の志士は「御楯組」を結成し血盟。ちなみにその趣意精神を記した「気節文章」は久坂玄瑞が記載したものである。
 そして12月、アメリカ公使襲撃は事前に計画が漏れていた為、高杉晋作、伊藤俊輔(伊藤博文)、井上聞多(井上馨)らと共に、品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを実行した。
 徳川幕府が80000両もの巨費を投じた完成直後の英国公使館は灰となり、長州尊攘派による攘夷活動が火蓋を切った。

 1863年の正月、知り合いの家に挨拶に行った久坂玄瑞は、振る舞われた雑煮を猛烈な勢いで食べ出したと言う。
 食べた量はなんとお餅30個。
 不思議に思った家の娘が久坂玄瑞に理由を尋ねるとこう言った。
「俺はもうすぐ京都へ行く。もう生きて帰らないつもりだから、一生食べるはずの雑煮を今日食べておくのさ」

 その後、久坂玄瑞は、長州藩に招聘する目的で佐久間象山を訪ねるため、水戸を経て信州に入り京都に到着した。
 京都では井筒タツ(辰路)という美人芸鼓と親しくなり、久坂玄瑞の子・久坂秀次郎が生まれており、その子孫が現在まで続く久坂家となっている。

 1863年1月27日、京都翠紅館にて各藩士と会合。
 4月からは京都藩邸御用掛として攘夷祈願の行幸を画策した。
 徳川幕府が攘夷期限を5月10日を上奏するのと前後して久坂玄瑞は帰藩し、5月10日に関門海峡を通航する外国船を砲撃する準備を整えるため、入江九一、吉田稔麿、山県狂介、赤根武人ら50人の同志を率いて下関の光明寺を本陣とし「光明寺党」を結成し、京より脱走してきた公卿・中山忠光を盟主として迎えた。この光明寺党が、のちの奇兵隊の前身となる。この頃、久坂義助と改名している。
 久坂玄瑞は中山忠光を首領として士卒の意気を高め、これに藩兵も加わり、5月10日から外国船砲撃を実行したが、長州藩の惨敗に終わる(外国艦船砲撃事件)。

禁門の変(蛤御門の変)にて短い生涯を閉じた英傑

 1863年8月18日の八月十八日の政変で長州勢が朝廷より一掃されたが、その後も久坂玄瑞はしばらく、京都詰の政務座役として在京して失地回復を図ったが、一方で薩摩藩は会津藩と手を組み、長州藩は苦境に立たされていく。
 三条実美・真木和泉来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めるなど対応にも苦慮が見受けられる。
 しかし、久坂玄瑞は1864年4月、薩摩藩の島津久光福井藩松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが京都から離れたのを機とみて、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を請うた。
 そして6月4日、進発令が発せられ、福原越後国司信濃ら三家老による藩兵が組織された。
 また、池田屋事件の悲報が国許に伝わると長州藩内は、もはやその勢いは止められるものではなくなり、久坂玄瑞は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上を開始した。

 長州軍は京都内外に陣取り、藩主父子と五卿の赦免と入京許可、そして攘夷の国是確立を武力を背景にしつつ、6月24日、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷に奉上。
 長州藩に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、朝廷はあくまで長州勢の退去を命じたのだった。
 7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わり、幕府は諸藩に令を下して京都出兵を促していた。
 7月17日、男山石清水八幡宮の本営で長州藩最後の大会議を開催。大幹部およそ20人ほどが集まった。
 久坂玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないと、兵を引き上げようとしていたが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。
 久坂玄瑞は「今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島又兵衛の進撃論と激しく対立した。
 来島又兵衛は「卑怯者」と怒鳴り「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と立ち去った。
 最年長で参謀格の真木和泉も「来島君に同意を表す」と述べ、この一言で進撃の議はほぼ決まる。
 このように切迫した場面で、慎重論に同調する者はほとんどおらず、久坂玄瑞は止むを得ざると覚悟し、その後一言も発することなくその場を立ち去り天王山の陣に戻った。
 
 諸藩は増援の兵を京都に送り込み、その数2万とも3万とも膨れ上がっていたのに対して、長州藩は2000で戦いを挑まざるを得なかった。

 7月19日早朝、長州勢は御所に向かって進軍開始し、御所を守る諸藩と交戦となった。
 蛤御門を攻めた来島又兵衛の戦いぶりは見事なもで、会津藩を破り去る寸前までいったが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、来島又兵衛が狙撃され長州軍は総崩れとなった。
 この時、狙撃を指揮していたのは薩摩藩士の西郷隆盛である。

 開戦後ほどなく久坂玄瑞は勝敗が決したことを知ったが、それでも久坂玄瑞の隊は堺町御門から乱入し越前兵を撃退し、薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内に入った。
 久坂玄瑞は一縷の望みを鷹司輔煕に託そうとしたのであった。
 鷹司邸に入るとすぐ、久坂玄瑞は鷹司輔煕に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと哀願したが、鷹司輔煕は久坂玄瑞を振り切り邸から逃亡。
 屋敷は敵兵に囲まれて火を放たれ、すでに火の海となっており、流弾を受け負傷していた久坂玄瑞は全軍退却命令を出した。

 入江九一らに「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託し、最後に残った久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃した。享年25。
 志半ばにして、その短い人生を終えてしまう結果となった。

 →禁門の変の詳細版はこちら

 吉田松陰から受け継いだ久坂玄瑞の思想と行動力は、坂本龍馬や中岡慎太郎をはじめ、幕末の志士たちに大きな影響を与えた。
 西郷隆盛は、明治維新の後、久坂玄瑞についてこのように述べている。
 「今、俺が少しばかりの手柄があったからといって皆にチヤホヤされるのは、額に汗が出るような気がする。もし藤田東湖先生や、久坂玄瑞、その他の諸先輩が生きておられたなら、とうてい、その末席にも出られたものではない。それを、ああいう先輩方が早く死なれたために、俺のような者が偉そうに言われるのは、恥ずかしゅうてならぬ」(頭山満「大西郷遺訓」)。

 以上、長い時間、ご高覧賜りまして、誠にありがとうございました。
 皆様の久坂玄瑞に対する思いなど、下記にあるコメント欄にてお寄せ頂けますと幸いに存じます。

 

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