月性 (げっしょう) 妙円寺の住職で尊王攘夷派の僧


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月性(げっしょう)は周防国遠崎(現柳井市遠崎)の妙円寺にて、1817年9月27日に生まれた。
字を知円(ちえん)といい、初め烟渓(えんけい)、後に清狂(せいきょう)と号している。

母・尾上(おのえ)は、岩国市門前の光福寺祇城に嫁いでいたが離婚して、妙円寺に戻った時には、月性を宿していたと言う。

幼い頃の月性は、学問など見向きもしない子であったと言うが、賢母であった尾上は、常に厳格な態度で養育し、その甲斐もあって熱心に勉強するようになった。

15歳のとき豊前国・恒遠醒窓(つねとうせいそう)の梨花寮に入り4年間漢詩を学んだ。
この時、長崎にも行き、欧米の脅威を実感した。
その後、肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学ぶと、大阪・京都・江戸・北越を遊学し名士と交流した。

妻は叔父・周邦(しゅうほう)の一女・ウメノ。

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32歳の時、妙円寺境内に私塾「清狂草堂(時習館)」を開いて、尊皇攘夷として「海防」の急を説いた。
私塾には遠方からも、その学徳を慕って入塾するものが多く、明治維新で活躍する赤祢武人、世良修蔵、大洲鉄然、大楽源太郎、入江石泉、和真道、天地哲雄などを排出している。

長州藩の萩では特に吉田松陰の兄・杉梅太郎と親しくなり、周布政之助や北條瀬兵衛らも紹介された。
また、村田清風、益田弾正、福原越後、浦靱負(浦元襄)などは「身分を問わず、志のある者による兵制をつくるべきだ」と言う、のちの奇兵隊設立に繋がる月性の海防護国の主張に共鳴。
月性が近くで講演を行うと聞くと、吉田松陰も松下村塾の講義を休んで、塾生に月性の話を聞きに行かせるなどし、久坂玄瑞らも交流した。

1856年、西本願寺に招かれて上洛すると、梁川星厳・梅田雲浜などと交流して攘夷論を唱えた。
紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んで為「海防僧」と呼ばれたと言う。

1857年12月4日、母・尾上が急死。
1858年1月、幕府の通商条約締結問題で長州藩内の意見が割れて、周布一派と村塾派が対立すると、吉田松陰は月性に萩に来てもらい、調停を依頼している。

その後京の本願寺が再び月性の上京を懇願した為、4月29日に上京開始したが、途中の室津(上関)にて病となり悪化。
5月2日には寺に戻ったが、1858年5月10日、国の将来を案じながら42歳で病死した。

長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩を愛した漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても知られる。

鹿児島湾で西郷隆盛と共に入水した僧・月照とは別人。

尊王攘夷と公武合体とは?幕末の政治運動を分かりやすくお伝えします

 

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