佐世元定 福原越後 福原元僴 長州藩家老


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 佐世元定(福原越後)は、長州藩支藩である周防徳山藩主・毛利広鎮の6男として、1815年8月28日に生まれた。
 母の名は不詳。

 六男であり家督を継げなかったので、長州藩士・佐世親長(益田就恭の実弟)の養子となると「元」の字を長州藩主・毛利斉元より受けて、佐世元定と名乗った。

 正室:椙森元周の娘。

 1851年、長州藩の家老に昇進。
 しかし、佐世家は家老を継ぐ家柄ではなかった為、1858年に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承し、福原元僴と名を変えて永代家老となり福原越後と称された。

 国家老として藩主・毛利慶親(毛利斉元の子、のちの毛利敬親)を補佐し、尊王攘夷派の家老として藩政改革を推進。
 寡黙で決断力があり、主君に忠実で温厚もあり、皆から慕われた家老であったと言う。

 しかし、1863年の八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、威信失墜の回復に尽力したが功を奏さず、来島又兵衛久坂玄瑞らと協力して挙兵。
 蛤御門の変では総大将として、益田親施(益田兼施)、国司親相らと軍を率いて上京すると禁門の変となった。

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 福原越後は伏見隊を率いたが、福原越後の領地・宇部出身の農兵達が多数所属していたと言う。
 農兵達は自分達の殿様のためにと、何としてでも殿様を守り、戦いで負けることがあれば、福原越後をなんとしても助けて、長州へ戻ると誓い合っていたと言われる。

 出発後すぐに大垣藩兵と交戦となり、いったんは勝利したが、後方で指揮していた福原越後は狙撃されて頬を打たれて負傷。
 これに動揺した伏見隊だけが京都の市中に入ることが出来ず、総崩れとなり、長州藩は久坂玄瑞、来島又兵衛、真木和泉ら有能な志士を失った。

 伏見隊の生き残り62名は、船で淀川を下って長州藩邸へ逃げる途中、一隻は桜宮(大阪市都島区)で、もう一隻は善源寺村の近くで、幕府側の高松藩兵に捕縛されて、千日前(大阪市中央区)の獄舎に捕えられた。
 負傷した福原越後は、摂津から西宮に出て、海路にて兵庫から長州に帰還しているが、捕えられた長州藩兵は刑死6名、獄死39名と大変過酷な扱いを受けた。
 大阪市営の南霊園4区に「死節群士之墓」として48基の墓標が建っている。

 その後、徳川幕府による第1次長州征伐が起こると、長州藩内では保守派である俗論党の椋梨藤太中川宇右衛門らが主導権を掌握。

 福原越後は禁門の変で敗れて逃げ戻ったという経緯や、尊王攘夷を図った責任者であった事もあり、西郷隆盛の提案もあり、幕府恭順の証しとして、3家老、福原越後・国司親相・益田兼施は長州藩命で切腹を命じられる。
 徳山藩預かりとなり衣笠伊織宅に幽閉されると、徳山藩主の子であったため岩国に護送され、1864年11月12日、福原越後は岩国の龍護寺で切腹した。享年50。

 こうして、第1次長州征伐は、西郷隆盛の計らいもあり、大きな戦にはならず、幕府軍は引き上げた。

 

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