毛利敬親~幕末の動乱期に長州藩を豊かにした英君


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 毛利敬親(もうりたかちか)は、1819年2月10日、長州藩の第11代藩主・毛利斉元(福原房昌)の嫡男として生まれた。幼名、猶之進。初名は教明。
 母は、側室:原田氏の娘。

 同年1819年8月28日に、父・福原房昌が藩主家である毛利家に戻り、9月10日に毛利斉煕の養子となって11月11日には毛利斉元と改名し、のち長州藩・第11代藩主となった。

 1836年9月8日、父・毛利斉元が死去すると、第12代藩主には毛利斉広が就任したが、12月29日に桜田藩邸において23歳の若さで死去。

 毛利治親の姻族・田安家から養子縁組の話があったり、毛利敬親より年長である毛利斉広の異母弟・毛利信順もいたが、毛利敬親が死去した毛利斉広の養子となる形で、1837年に家督を継いで第13代藩主となった。

 のちに毛利斉広の娘・都美子を正室に迎え、第12代将軍・徳川家慶の1字を与えられて初名の教明から毛利慶親に改名。

 1838年に萩城に入ると、翌年より質素倹約と貨幣流通の改正を行った。
 この時、村田清風を登用して藩政改革を断行。村田清風が死去すると、坪井九右衛門を登用した。

 1841年、江戸に文武修業の場である藩校・有備館を建設し、萩藩内の実態調査も実施。
 1843年、萩で練兵を行い、藩の軍事力の強化にも務めるなど、毛利敬親は積極的に改革を行った。
 1849年には、萩城下の藩校・明倫館の改革も行っている。

 1853年、アメリカからペリー提督が浦賀に来航すると、江戸幕府より相模国周辺の警備を命じられた。
 1858年8月、密勅を受け「尊王」に尽力することになり、坪井九右衛門を引退させて、周布政之助らを登用。
 藩論として「攘夷」の意見を幕府に提出した。
 以後、毛利敬親は周布政之助を重用し、藩是三大綱を決定し、長州藩の体制強化と洋式軍制の導入する軍制改革を開始した。

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 毛利敬親は優秀な人材を家柄・禄高に関係なく育成・登用した為、長州藩では多くの優秀な人材が輩出された。
 また、吉田松陰松下村塾では、その門下生となり、毛利敬親の人柄は領民・藩士からも慕われたと言う。

 1861年、長井雅楽を登用して、航海遠略策により朝廷と幕府との協調策を模索したが、政局の主導権を長州藩に握られることを恐れた薩摩藩の妨害によって失敗。
 この後、藩論は周布政之助や桂小五郎らが主導する「攘夷」へと大きく方針を転換した。

 1862年7月、攘夷の実行を長州藩の方針として、1863年4月には藩庁を海防上の理由から海沿いの萩城から山口城に移転させた。
 そして、5月には外国船の打ち払いを開始するも、アメリカ・フランスの軍艦からの報復攻撃を受けた。
 八月十八日の政変では、長州藩は京から追われ、1864年6月の池田屋事件では多くの長州藩士が会津藩麾下の新選組によって殺害・捕縛された。
 その為、長州藩は京に出兵することとなり、7月には「禁門の変」になっている。

 この長州の暴挙に対して、朝廷は徳川幕府に対し長州征討を命じ、8月に毛利敬親の官位を剥奪した。
 さらに同月、英仏蘭米の4ヵ国の連合艦隊が下関に襲来して敗北(下関戦争)。
 第一次長州征伐が開始されると、国司親相益田親施福原元僴ら3家老を切腹させて「恭順」に転換し10月に萩にて謹慎した。

 その後、1865年、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵し、椋梨藤太俗論派(保守派)を打倒するクーデターを実行(功山寺挙兵)。
 これにより正義派(倒幕派)が政権を握り、高杉晋作らは奇兵隊や民間の軍事組織である長州藩諸隊を整備した。
 毛利敬親は大村益次郎を登用して西洋式軍制を採用し、ゲベール銃やミニエー銃など新式兵器を調達。戦術の転換など大規模な軍事改革を行った。

 1866年、坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、同年8月の幕長戦争(第二次長州征伐)に勝利。

 1867年、イギリスとの関係を改善し、10月には討幕の密勅を受けた。

 そして同年11月には薩摩藩らと共に官軍を組織して京へ進軍。
 王政復古のクーデターを成功させた。

 毛利敬親は1868年5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口藩庁へ帰還している。
 明治政府が樹立されると、参議に就任。

 明治2年(1869年)1月、毛利敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請。
 6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜された。
 6月4日に家督を毛利元徳に譲って隠居。
 明治4年(1871年)3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。

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そうせい侯

 このように幕末の動乱期に長州藩では1年毎と言っても良いほど、保守派・改革派と政権が入れ替わり、毛利敬親は

 保守派が案を申し出ても「うむ、そうせい!」
 改革派が案を申し出ても「うむ、そうせい!」

 と、家臣らの意見には反対する事が無かったとされる。

 「そうせい侯」と呼ばれ評価が低いとも言われるが「版籍奉還」など将来を左右する重要事項には最終的な判断を下していたとされ、個人的な感想を述べさせてもらうと下記の通りだ。

 毛利敬親は、今で言う「会長気質」だったのではないだろうか?

 実務は自ら選んだ家老(社長)に任せて、実行するにも優秀な藩士を登用していた。要するに無能な家臣は近づけなかったと言える。
 毛利敬親の長州藩は、藩の教育として人材育成し、時には留学もさせており、適材適所で人材がとても活かされているのが特徴。
 例え過激すぎて牢獄に入るような事態となった藩士がいても、のちには許して復帰させているくらいの優秀な人材がゴロゴロしていたのだ。
 そんな優秀な長州藩の面々からの新企画(改革案)あれば、完成度は高く、特に横槍を入れるような愚案でもなく「そうせい」と言う事になったのだと小生は感じている。

 毛利敬親は、太っていて顔も腫れて神経痛で歪んでいたと言う。歩行も辛かったようだが、結果として難局を乗り切り、明治維新を成し遂げるきっかけを作った人物として、評価したい。

 

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