毛利元徳 (毛利広封、毛利定広) 長州藩最後の藩主


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 毛利元徳は、徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の10男として、1839年9月22日に生まれた。初名は広封、定広。
 母は側室である三宅才助の娘・多喜勢(滝瀬)。

 1852年2月27日、先代の藩主・毛利慶親(のちの毛利敬親)に嗣子がいなかった為、養子となった。
 そして、はじめは毛利広封(ひろあつ)と称した。
 高杉晋作の父・高杉小忠太が奥番頭として仕えた他、井上馨などが小姓としてついた。

 1857年2月18日、長州藩の養父・毛利慶親の嫡子となり、同年3月9日、従四位下侍従・長門守に叙任した。
 そして、徳川将軍・徳川家定から偏諱(「定」の一字)を受けて、毛利定広(さだひろ)と名乗った。
 時代は尊王攘夷で、藩主の名代として活動。

 正室は長府藩主・毛利元運の娘で、毛利敬親の養女となった毛利安子。側室には山中花子がいる。

 1864年7月14日、禁門の変では三条実美らを伴い、長州藩兵を率い京都に向かい、久坂玄瑞らと合流しようとした。
 しかし、7月21日、禁門の変の敗北を知ると途中で山口に引き返している。
 8月22日、江戸幕府により官位を剥奪された他、「定」の字も召し上げられて、毛利広封の名に戻した。

 1865年、嫡男・毛利元昭が誕生し、久坂玄瑞が亡くなったあと未亡人となっていた杉文が養育係となっている。
 その他、子供は小早川三郎、小早川四郎、毛利五郎、大村徳敏、西園寺八郎(西園寺公望養子)らと多数。

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 尊王攘夷の活動では、強行に出ようとする高杉晋作を説得するなどの動きも見られた。
 明治維新となると名を毛利元徳(もうり もとのり)に改名。

 1868年2月上洛すると3月には議定に就任。

 明治2年(1869年)6月4日、養父・毛利敬親が隠居すると後を継ぎ、従三位・参議になった。
 しかし、藩主就任後まもなく版籍奉還となり、山口藩知事となる。

 明治4年(1871年)、廃藩置県で知事職を失うと東京へ移り住んだが、華族は東京に住むことが義務付けられていた為である。

 1877年、第15国立銀行頭取。
 1878年、貴族院議員。
 1884年からは公爵となった。

 明治29年(1896年)12月23日、死去。57歳没。
 従一位勲一等、12月30日に国葬。号は忠愛公。

 (参考) Wikipedia

 →雲仙とは~長州藩の反乱軍リーダーと脱退騒動
 →正室である銀姫の生涯
 →嫡男・興丸(毛利元昭)~杉文(久坂美和)が守役となった長州藩主の子
 →村上恒久と松原誠一とは【花燃ゆに登場する毛利元徳の側近】

 

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