徳川家定 徳川幕府の第13代将軍 幕末期の将軍


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 徳川家定(とくがわいえさだ)は、徳川幕府の第12代将軍・徳川家慶の4男として、1824年4月8日に江戸城西ノ丸大奥で生まれた。
 母は側室の美津(堅子、本寿院)。

 徳川家慶の男子は早世した子が多く、この徳川家定も幼い頃から病弱であり、脳性麻痺であったとも言われる。

 1841年に大御所・徳川家斉が死去すると、父である第12代将軍・徳川家慶の後継者を決める事となり、父・家慶は、家定の器量を心配して、一橋家・徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどでもあったが、老中・阿部正弘らが反対し、徳川家定が将軍継嗣に決定した。

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第13代将軍に就任

 1853年、ペリー提督黒船来航のあと、父・徳川家慶が病死し、徳川家定が第13代将軍に就任。

 正室として鷹司政煕の娘・任子や、一条忠良の娘・秀子を迎えるも、いずれも早世したため、島津家より近衛忠煕の養女・敬子(天璋院篤姫)とも結婚した。
 しかし、徳川家定は更に病状を悪化させ、廃人に近い状態となり、ついに実子は生まれなかった。

 その為、後継を巡っては将軍継嗣問題が起こり、島津斉彬・松平慶永・徳川斉昭・阿部正弘ら一橋派と、井伊直弼松平容保・松平頼胤・松平忠固・水野忠央ら南紀派が争う事となった。

 1854年2月13日、ペリー提督が再来日すると、老中・阿部正弘は3月3日に日米和親条約に調印。

 その後、阿部正弘が病死すると一橋派は勢力を弱め、幕府は老中・堀田正睦によって主導され、1857年10月21日には、米国総領事タウンゼント・ハリスと江戸城にて会見した。

 病状は増々悪化し、それまで政務に関してほとんど口を出す事がなかった徳川家定であったが、1858年6月25日、諸大名を招集すると、次の将軍を徳川慶福にすると指名。
 更に7月5日には反対を唱える一橋派を処分すると言う行動も見られるが、それ以外には将軍らしいことはしておらず、幕府の信用が失墜する原因の1つとなった。

 しかし、その処分を発表した翌日である1858年7月6日に死去。享年35であった。

 徳川家定は「暗愚」と評されることが多いが、幕末ではない平和な江戸時代であったら、ここまで悪評を受けなかったと言えよう。

 歴史にif(もし)は禁物であるが、もし、徳川家定が健康で聡明な将軍であったならば、この難局をなんかと乗り越えて、倒幕に至らなかった可能性もあると思う。
 そう考えると、またおもしろい。

 (写真参考) 築城―覇者と天下普請より

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