天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)「於一」の解説 薩摩・島津家から徳川将軍の御代に
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天璋院篤姫とは
天璋院篤姫(てんしょういん-あつひめ) 1836年2月5日(天保6年12月19日)~1883年(明治16年)11月20日 享年48歳。
下記は鹿児島城にある篤姫の像。
天璋院篤姫の実父は、薩摩藩島津家の一門・今和泉の5代領主・島津忠剛とされる。鹿児島城下、鶴松城北東にある重臣屋敷・上町の今和泉島津家本邸で生まれ、於一、島津一子と呼ばれた。
幼少から聡明・利発で島津忠剛は「一子が男子であれば」とその器量を評価したと言う。(薩摩藩主・島津斉彬の実子説も有。)
幼少の折には、小松帯刀らと一緒に学問を学んだとされる。
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■徳川将軍の正室を薩摩から出す事になった経緯
徳川将軍後継問題で、徳川家定のあと、次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推す一橋派(備後福山藩主兼幕府老中・阿部正弘、水戸藩主・徳川斉昭、島津斉彬)と、紀州慶福(徳川家茂)を推す紀州派(紀州藩老中・水野忠央、井伊直弼)らが対立する。
そんなおり、第13代将軍・徳川家定の正室は2人とも若くして死去していた為、幕府の考えとしては第3正室には健康で元気な女性が良いと言う事になった。
そんな中、先代11代将軍・徳川家斉の正室であった茂姫(後の廣大院)の血筋を引く者達が、のちの大名家の藩主や正室などに数多くおり、血筋が非常に健康で繁栄していたことから、茂姫の親元であった島津家に、幕府は正室を出すように要求した。
別の説では、薩摩藩島津本家の島津斉彬が幕府改革の政略の為、将軍に正室を輿入れさせたと言う説もあるが、薩摩側から正室を申し入れしたとは考えにくく、幕府からたまたま正室をと申し出があったようだ。島津斉彬としてはこの機会に、次期将軍は一橋慶喜をと、より一層有利に画策する為、大奥を利用しようと考えた=便乗したというのが正しいようだ。
将軍の元に御台所(正室)を送り込んで、大奥から政治工作をさせるには、並大抵の姫では勤まらない。このような理由から、重大な役割を担う正室にと抜擢されたのが、島津一門の島津忠剛の娘で聡明・利発な一子である。
1953年、薩摩藩11代藩主・島津斉彬(なりあきら)は於一(一子)を島津本家の養女とした。そして、一子は名を篤子(篤姫)と名を改めることになったのである。
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■2度と戻ることはなかった薩摩を出発し江戸へ
篤子(篤姫)は3ヶ月間鹿児島城で過ごした後、8月21日に薩摩を出発。途中では海路も使用したとも言われるが最近の研究では、ほぼ陸路を使ったとされている。
9月24日に大坂に到着して、住吉天満宮参拝。そして、京では近衛邸を訪問し宇治や東福寺などを見物した。
江戸へ向う途中、箱根では当然温泉にも入浴したであろうし、鎌倉にも寄ったとされている。江戸では芝にある薩摩藩上屋敷に入った。
■江戸での輿入れ準備
将軍の正室を島津家から迎えるに当たって、幕府内では島津が外様であることからも紀州藩などの抵抗があり、すぐに輿入れとはならず、篤子(篤姫)は江戸にて約2年の月日を過ごすことになる。
本来、将軍の正室は公家から迎えるのが正式であったとこから、島津斉彬や一橋派の中心人物、阿部正弘らは知恵を絞り、1856年に篤姫を、島津斉彬の姉が嫁いでいた右大臣・近衛忠煕の養女とした。
五摂家の筆頭=公家の家格の頂点でもある近衛家の娘とあっては、紀州派も強く反対を唱えることができなくなり、以後、将軍家輿入れに大きく進展する。
なお、篤姫は近衛忠煕の養女になったことで、篤君と呼ばれるようになり、諱の名を「近衛敬子」とした。
近衛家には得浄院と称する、島津家より近衛忠煕に嫁いだ郁姫付きの元老女がいた。その得浄院は篤姫が大奥へ入る際の御年寄として抜擢され、幾島と改名し、京から江戸の薩摩藩邸に下向。
まもなく、篤姫は将軍・徳川家定の第3正室として大奥へ、幾島と共に入るのである。
幾島は、近衛家の家士・今大路孝由の娘と言う肩書きで大奥に入ったと言われる。
■大奥
篤君は、ようやく将軍の御台所となり、大奥では篤姫君と呼ばれるようになる。しかし、将軍・徳川家定は生まれながらにして病弱で、この時すでに言葉もうまく話すことすら困難だったとされ、とても世継ぎを期待できる体ではなかった。脚気と言う、疲れやすく体がしびれる病気であったとも言われる。
大奥は年寄・瀧山(滝山)や当時大奥最大の実力者・歌橋など、ほとんどが紀州派であり、 一橋派の政略も担う篤姫君を歓迎する者は少なかった。
大奥は紀州派と言うよりは、水戸嫌いだから紀州が良いと言う事である。水戸嫌いの理由としては、水戸の徳川斉昭が大奥に倹約(節約)を求めたと言う事もあるが、絶世の美女として知られる大奥女中の唐橋が大奥から水戸藩邸に行った際に、水戸藩主・徳川斉昭が手をつけて妊娠させてしまう。唐橋は公家の娘であり、また生涯奉公、終身不犯を誓った身。将軍家斉でさえ決まりを守り手が出せなかった。その為、大奥は唐橋に手をつけた水戸を嫌ったようだ。
なお、唐橋は実家のある京に戻り、その後、花ノ井と称して、水戸の徳川斉昭の元に行ったと言われているが、生没年ですら詳しいことはわかっておらず、篤姫君が嫁いだ頃にはすでに大奥に唐橋はいなかったとするのが妥当である。
この唐橋は、12代将軍・徳川家慶が死去するまで大奥で権力を誇っていた上臈御年寄・姉小路の妹であり、姉の姉小路は大奥を去ってからも、発言力を保っていたとされる。
しかし、第13代将軍に徳川家定が就任すると、御台所が不在の時期もあったので、徳川家定生母・本寿院や御年寄・瀧山らの発言力が増し、歌橋が大奥最大の権力を誇っていた。
そんな所に、形式上は大奥で一番偉い人物となる新しい御台所・篤姫君が来たので、本寿院・瀧山・歌橋らはおもしろくない。
そして、大奥で一橋派として工作する幾島は篤姫君を補佐する一方、江戸城内と薩摩藩との連絡役・密偵役としても活動し、西郷隆盛を通して薩摩江戸藩邸の奥老女・小ノ島と連絡し、大奥の動向を伝え、薩摩藩との連携に大きな役割を果たしたのであった。
勝海舟の日記では大奥に入った篤姫君が猫を飼い、その猫のエサ代が年間25両だったと記載されている。ちなみに、猫の世話をしたのは御年寄・瀧山の姪で大岡ませ子。
■篤姫づきの大奥女中
幾島以外の篤姫つきの大奥女中を簡潔にご紹介。
初瀬 (はつせ、生没年不詳)
初名は粂山。父は旗本榊原氏。宿元は甥の榊原七郎右衛門。 当初は徳川家祥室・寿明姫付きの中年寄で江戸城西の丸にいたが、寿明姫没後は詰となった。徳川家祥の将軍就任に従って本丸に移る。篤姫が大奥に入ると、ともに大奥に入っていた幾島と篤姫付きの御年寄となる。1862年前後までには大奥で致仕。
瀧井 (たきい、生没年不詳)
初名は岩野。父は旗本熊倉茂高。 中年寄として篤姫に仕えた。その後、昇進して御年寄となり、名を瀧井と改名。
川井 (かわい、生没年不詳)
祖父は関正秀か?。弟に小姓組を勤めた関十蔵がいる。中年寄として篤姫に仕えた。1863年の江戸城火事で、西の丸、本丸・二の丸が焼失した際に、他の多くの女中たちとともに暇を出されたが、3年間は諸手当を保証されていたと言われる。
歌川 (うたがわ、生没年不詳)
初名ふく。父は旗本岡野氏。宿元は又甥の岡野福次郎。 御中臈として篤姫に仕えた。その後、御中臈頭となり歌川に改名。そして中年寄になった。
袖村 (そでむら、生没年不詳)
初名みや。祖父は青木兼鑑か?。弟に小普請を勤めた青木熊之助がいる。御中臈として篤姫に仕えた。1864年には御中臈筆頭になっている。
さか (生没年不詳)
薩摩から篤姫に付き従った女中で、父は薩摩藩士仙波氏。宿元は兄仙波市左衛門。 篤姫が薩摩藩主・島津斉彬の娘になった時から世話をしていたと考えられ、以後、篤姫の大奥輿入れにも従い、江戸城開城以降も天璋院に従って千駄ヶ谷に移り、天璋院の女中頭を勤めたと言われている。また、天璋院晩年の旅行の供などもしている。
くわ (生没年不詳)
旗本土屋忠兵衛の娘。宿元は甥で御小姓組を勤めた土屋国之丞。 篤姫の御中臈として仕えた。1858年前後で致仕したものと考えられる。
かよ (生没年不詳)
沢仁兵衛の娘。宿元は父で小十人組を勤めた沢仁兵衛。祖父は沢実久。篤姫の御中臈として仕えた。
つよ (生没年不詳)
旗本太田氏の娘。宿元は兄で小普請などを勤めた太田勝太郎。 当初は徳川家定付きの御中臈であったが1857年に篤姫付きの御中臈になる。しかし、1862年に御中臈増人に降格となり、致仕したと考えられる。
福田 (ふくだ、生没年不詳)
原田氏の娘。宿元は甥の原田八十一郎。 篤姫つきの表使。
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■ペリー来航・安政の大獄・徳川家定の死去
篤君が大奥に輿入れとなる頃には、一橋派の中心人物、福山藩主・阿部正弘が幕府の筆頭老中をしていた。
当時、大老がいなかったので、阿部正弘が実質役人の頂点。(紀州派に配慮して大老昇進は断っていたと言われる。)
阿部正弘はペリーが来航すると、全国の大名から広く意見を聞くなど、今までの幕府にはなかった政治手腕を発揮。1857年には、世界情勢を見据えてアメリカと日米和親条約を結び下田と函館を開港するなど、日本がアメリカの植民地になることを防ぎ「日本を救った政治家」とされる。
その阿部正弘が39歳で急死してからは、幕閣を主導した佐倉藩主の老中・堀田正睦が一橋派に好意を示した。そして、福井藩主・松平慶永(松平春嶽)の命を受けた橋本左内や、島津斉彬の腹心・西郷隆盛らも朝廷への工作など京都で暗躍したが、
結果的には紀州派が勝り、彦根藩主・井伊直弼が最高職の大老に就任。篤姫らは将軍世継問題で真っ向から対立することになる。
井伊直弼は大老の地位を利用し強権を発動し、悪政と称される安政の大獄が始まった。
また、井伊直弼は攘夷の考えである天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を勝手に結び、次期将軍を紀州慶福(徳川家茂)にする考えに反対する者と、日米修好通商条約締結に異を唱えた、一橋派大名や公家など尊王攘夷派・一橋派を100人以上を蟄居・隠居・謹慎とし弾圧。そして、吉田松陰・橋本左内ら優秀な人材8名を斬首した。
この安政の大獄により江戸幕府はモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させる結果となった。
翌年1858年、幕府は次期将軍には紀州藩慶福にすると決定。その決定からまもなく将軍・徳川家定が死去。
次期将軍決定に抗議する為、島津藩5000人を軍事訓練し準備を進めていた島津斉彬も発病し死去と、一橋派はたて続けに頼りの人物を失う。
そんな激動の中、病床の徳川家定と篤姫君はわずか1年半と、実のない結婚生活を送る一方、幕末の動乱の中、自分の運命を切り開いて行くことになる。篤姫君が徳川家定亡きあと、髪をおろして天璋院と名乗ったのは、まだ20歳代前半のときであった。
■紀州慶福(徳川家茂)が第14代将軍に就任
徳川家定の後には第14代将軍として、1858年、慶福(徳川家茂)が就任。
まだ、13歳と若輩であった為、将軍職としての政治権力は抑制されていたが、家臣からも名君と将来を期待されていた。田安慶頼が将軍後見職につき、江戸幕府は威信回復の為にも尊王を示す為「公武合体」を進め、天皇家より将軍・徳川家茂の正室を迎えるよう画策する。
候補にあがった敏宮は30歳近くと、年長すぎて合わず、1858年に生まれたばかりのの皇女・富貴宮が第一候補となったが、富貴宮が1859年に死去したために、結果的に徳川家茂と同年の皇女・和宮に絞られ、1860年に孝明天皇もやむなく承諾。
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1862年、幼い徳川家茂に正室として朝廷より仁孝天皇の妹・和宮が大奥へ入る。
また、島津久光らの工作により1862年に孝明天皇の勅命が下され、将軍後見職に一橋慶喜が就任、大老には同じく一橋派の福井藩主・松平慶永(松平春嶽)がつき、安政の大獄で弾圧した者を処罰し、幽閉されていた者を釈放するなど、今度は開国し一橋派が勢力を盛り返してきた。
■和宮の輿入れ
和宮は少し足が不自由だったが、小柄でとても可愛らしく、身長1m43cm、体重34キロ位だったとの事。6歳の時から有栖川宮家と9年間婚約しており、ずっと有栖川宮家で世話になり学問などをしていた。
当初、幕府の申し出に対して、和宮はすでに婚約済であった事や、過去に皇女が武家に降嫁した例はない為、孝明天皇は当然拒否回答。しかし幕府はあきらめず、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、数々の裏工作をおこない、天皇侍従を務めていた公卿・岩倉具視の説得もあって1860年6月20日、孝明天皇は「幕府が攘夷を約束するなら」という条件付きで、やむなく降嫁を認めた。大奥の上臈御年寄だった姉小路も和宮の降下も自ら京に赴き要求したと言う。和宮は姉小路の兄の孫娘である。
京から出たことのない和宮は、当然のように江戸に行くことを拒否した。しかし、仁孝天皇がまだ1歳の富貴宮を代わりに徳川家へ嫁つがせ、それが受け入れられなかったら退位も辞さないと言う書状を見ると、自分の主張はわがままであると悟り、和宮は徳川家へ行くことを決心したと言う。
また、一方、徳川家茂にも婚約者がいたと言うので、お互い政略に巻き込まれる形となった。
数千人を従えた和宮の行列は1861年10月20日京都を発ち11月15日江戸に到着。江戸幕府は衰えぬ威勢を示すため諸藩による警護2万人を和宮のお迎えに動員。駕籠の数800挺、その長さは50kmにも及び、各宿場では行列通過には前後4日要したと言う。
道路や宿場の準備・警護を入れると総勢20万人も動員したされ、現在の費用に換算すると約150億円も費やした。
なお、和宮が江戸での暮らしに困らないよう、生母の観行院、乳母の土御門藤子、女官の庭田嗣子(仁孝天皇の典侍)、能登らを江戸での和宮近くに置くため、江戸下向の際に同行した。
この頃、薩摩藩は天璋院に薩摩帰国を申し出るが、「自分は徳川家の人間だから」と天璋院は帰国を拒否している。
■和宮と天璋院
征夷大将軍で夫の徳川家茂よりも和宮の方が身分は上で、婚儀の際も、将軍・徳川家茂から和宮に挨拶をすると言う前代未聞の現象が起きていた。
和宮と天璋院の間柄としても年の差10歳ながら、言わば「嫁姑」の関係だが、身分は和宮の方が遥かに上。また、皇室出身・武家出身と生活習慣の違いもあって二人は当初対立したと言う。
特に、和宮は大奥でも京都御所風の生活を続けようとするが、天璋院は大奥女中1000人の筆頭として、あくまで江戸風(武家風)の生活をするよう説き伏せた。
一般的に、天璋院と言うと、天璋院(姑)が和宮(嫁)をいじめた事でよく知られるが、NHK大河ドラマなどでは、そんなにひどくは描かれない気がする。
実際には天璋院も元御台所として、徳川家の為にも和宮と親しくなりたかったとされ、徳川家茂が上洛していた際には、和宮と共に芝の増上寺でお百度参りしたとも伝えられている。
このように和宮と天璋院がお互い分かりあえたのもつかの間、もともと体が丈夫とは言えなかった将軍・徳川家茂が、1866年7月20日、第二次長州征伐の途上で病に倒れる。天璋院や和宮は急ぎ、医師を江戸から派遣させたが、その甲斐なく、21歳の若さで徳川家茂は大坂城にて病死した。
前年(1865年)には、和宮生母・観行院も江戸城でなくなっており、続けて親近者を亡くすのである。
■徳川慶喜の将軍就任と孝明天皇の崩御
徳川家茂の死後、朝廷は和宮(徳川家茂死後、静寛院宮)に京へ帰るように勧めたが、天璋院と同じようにそれを断わる。
大奥としては天璋院を筆頭に御年寄・瀧山らが次期将軍として、田安亀之助(徳川家達)を強く推挙した。
以前、天璋院らが擁立する予定だった一橋派の徳川慶喜とは、すでに険悪な仲であったとされ、もともと大奥じたいを不要と感じていた徳川慶喜は、天璋院に対して、外様の分家の出で将軍家の正室におさまったと嫌っていたようだ。
徳川家茂も生前、田安亀之助(徳川家達)を次の将軍にと望んでいたが、田安亀之助(徳川家達)は当時まだ4歳であり、幕政を案じた和宮や幕臣・諸侯らは「国事多難の時に幼将軍は困る」と反対。大奥が推挙していた徳川慶喜も徳川宗家の家督は継いだが、老中らの将軍就任要請は固辞していた。
徳川慶喜は将軍後見職として、1864年の京都御所で起こった禁門の変で、幕府軍を指揮し長州勢を追い払った手腕などの実績もあった為、業を煮やした孝明天皇は1866年12月5日に徳川慶喜に征夷大将軍の宣下をだし、徳川慶喜はさすがに断れず将軍に就任した。
ただ、徳川慶喜は、最近の将軍と比較しても大変才覚ある優秀な人物で、本来であれば将軍として名君になったであろうが、国内の混乱でもはや将軍の権力は失墜しており、政治の長と言うよりは、江戸幕府と言う巨大組織全体の代表と言う立場で、なんとか存続を図ろうと苦心したように見受けられる。
1866年12月25日、徳川家茂が亡くなってまだ5ヶ月と言うのに、孝明天皇が享年37で崩御。滅多に風邪にもならないと言う壮健な孝明天皇であった為、暗殺説なども多くある。
和宮も天璋院と同じように、短い間に母や夫と兄と言う親近者を失い、以後、和宮も天璋院と協力して徳川家存続の為、力をあわせて尽力する。(天璋院が和宮を利用したと言う説もある。)
幾島は約7年間、篤姫君近くで勤めたが1864年体調を崩し医師の診断を受けおり、1865年頃奉公を辞めている。
西郷隆盛らと14代将軍を一橋慶喜にと画策した、薩摩藩の江戸藩邸老女筆頭・小ノ島は1866年に引退。大奥の年寄・瀧山も1866年か1867年頃に隠居し、明治には川口(埼玉)で暮らしている。
また、徳川家家督をついだ徳川慶喜は大奥改革に乗り出し、天璋院は和宮と共に抵抗する。
1867年、徳川慶喜は大政奉還をして、倒幕運動の大義名分を失わせ、政権を返上しても朝廷に政権担当能力がなかった為、引き続き徳川家を中心に新政府下の実質的な中心役割を果たそうとした。
これに対し討幕派(薩摩藩の大久保利通や、長州藩、岩倉具視らの一部公家)は、政治上の劣勢を挽回すべく、徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し、1867年12月に王政復古を宣言=「王政復古の大号令」ほ出す。
旧幕府と上級公家を廃して、薩長を中心とした新体制を作り、徳川慶喜に対し官位辞退と領地の一部返上(辞官納地)を要求。さらに薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作などを行った為、庄内藩が江戸の薩摩藩邸を焼き討ちする事件もおこり「討薩」を望む声を抑えきれず、徳川慶喜ら旧幕府軍は討薩表を掲げて、京都を軍事力によって鎮圧すべく兵を進めた。
そして、1868年1月、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽伏見の戦いとなった。
鳥羽伏見の戦いでは、最新式兵器の運用に不慣れな旧幕府軍に対して、慣れている新政府軍が有利に戦いを進め、朝敵になったことで幕府軍大将の徳川慶喜が江戸に逃げるなどして、士気が上がらなかった幕府軍は大敗。結果的に薩摩・長州の方が政策も上手だったのかも知れない。
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■江戸城無血開城
江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、降伏恭順に徹し、天璋院や和宮に面会して、江戸に迫り来る官軍(西郷隆盛ら)との仲介を申し出た。この頃既に天璋院や和宮は徳川慶喜を嫌っており、最初は会おうとしなかったが、徳川家存続の為に会談した結果、天璋院は島津本家に、和宮(静寛院宮)は1月21日に土御門藤子を使者として朝廷に派遣し、共に嘆願。徳川慶喜は罰を受けても仕方ないが、徳川家存続や徳川慶喜の助命を願い出た。
皮肉にも薩摩・長州勢「官軍」の大総督(最高責任者)は、かつて和宮(静寛院宮)の婚約者だった有栖川宮熾仁親王だった。
和宮は更に、3月10日、再び土御門藤子を沼津まで来ていた官軍に向わせ、江戸進撃猶予を嘆願。3月11日には侍女・玉島を蕨(埼玉県)に遣わして、官軍の進撃猶予を再度嘆願した。
しかし、官軍は北は板橋、南は多摩川辺りまで迫り、江戸城総攻撃の日にちまで決定していたが、降伏すると申し出ている徳川慶喜に対しての戦いでは士気が上がらず、天璋院からの嘆願や明治天皇が和宮の嘆願に同意したこと、降伏している相手への攻撃は国際法違反だとイギリスやフランスの理解を得られない事もあり、勝海舟と西郷隆盛の交渉も、降伏する側の勝海舟が有利に進めたと言われている。
こうして寸前で江戸城総攻撃は中止され、代わりに徳川家は江戸城を明け渡した。
ちなみに、当初の明治政府は薩摩、土佐、広島、尾張、福井の5藩と岩倉具視など薩摩などに協力した公家を中心にした連合政権。事実上、篤姫出身の薩摩が皮肉にも徳川家を倒した形になったのである。
■その後の天璋院と和宮
江戸城開城の際に、和宮と天璋院は二人して徳川家伝来の家宝を広間に飾り、大奥の品物を一切持ち出すことなく、倒幕軍に明け渡して徳川家の女の意地を薩摩・長州勢らに見せ付けるが、倒幕派の中心は、島津斉彬が藩の下級武士から登用した西郷隆盛や大久保利通ら故郷である元薩摩藩士という皮肉。
幕府側は、天璋院を薩摩へ無事返すことによって官軍に恩を売ろうと図るが、天璋院は毅然とした態度で拒絶し、天璋院は本寿院と共に一橋邸に退く。天璋院は身寄りのない大奥女中260人~300人の再就職や嫁入りなどを心配し、徳川宗家の後継者とされた田安亀之助(徳川家達)の養育に専念したと言う。
一方、和宮は亡き将軍・徳川家茂の生母である実成院とともに田安屋敷へと移り、姉小路は二ノ丸大奥から立ち退いて、京都の実家に戻った。
徳川宗家の駿府転封が決まると、一橋家にいた天璋院は、明治政府から与えられた千駄ヶ谷の徳川宗家邸宅に移り住んだ。
明治期は徳川家から少しの援助で過ごし、立派に成長した徳川家達の婚姻を済ませるが、1883年東京の徳川宗家邸で死去、享年48歳。天璋院が亡くなった際、手元に残っていたお金は、わずか三円(現在の価値で約6万円)であったとも言われている。
江戸幕府崩壊後には勝海舟が天璋院を「姉」と偽り、2人で色々と東京の街に繰り出したようだ。料亭、吉原、芸者屋、隅田川の舟遊びなど。
そんな勝海舟も女性なのに尊敬すると述べるなど、数奇な運命を辿った天璋院は、上野の寛永寺に、徳川家定の墓と並べて埋葬された。
一方、和宮(静寛院宮)は、1869年(明治2年)に天璋院を尋ねたあと、一旦京に戻り、聖護院を仮住いとしたが、明治天皇の東京行幸の際、1874年(明治7年)再び東京に入り、麻布市兵衛町の八戸藩・南部信順の元屋敷に居住。11月12日徳川家達を招待、11月29日には天璋院、本寿院らを御殿に招待し、翌年、自らも千駄ヶ谷の徳川宗家を訪問している。
その後、勝海舟の家で、天璋院と和宮は互いに相手のご飯をよそって仲良く食事するなど、天璋院は和宮は理想の間柄になるが、それも数年と僅かで、和宮は明治10年に病気療治のために滞在していた箱根・塔之沢の環翠楼で病死した。(享年32)
脚気衝心(脚気による心不全)と考えられている。
遺体は、遺言どおり芝・増上寺の徳川家茂の側に葬られた。
のちに天璋院が箱根・塔ノ沢へ旅行した際には、和宮が最後に過した旅館を見て、天璋院は涙したと言う。
徳川将軍の墓で、夫婦二人の墓が横に並ぶのは天璋院篤姫と和宮の2組だけである・・。
■嫁(和宮)と姑(篤姫)の確執?
大奥で二人の初対面となった際、天璋院は将軍の母として上座に茵(しとね)が敷いてあった。それに対して和宮の座は下座に設けられ、茵も敷かれていなかった。
そもそも天皇の皇女が武家に降嫁したのは天皇家始まって以来、初めての事。征夷大将軍よりも身分が上の皇女和宮にとって、経験したことの無い大変耐え難い侮辱で、何か不満があると京の孝明天皇に手紙を送り窮状を訴えていた。孝明天皇も怒り、待遇改善の書状を送る他、抗議の勅使を遣わそうとしたと言う。
和宮は結婚承諾の5条件を嫁ぐ前に出していた。
御台様ではなく和宮様で呼ぶように
天璋院は本丸・大奥から出て行くように
輿入れは京風にする
大奥でも身の回りは京風に
毎年1回は京に里帰りする
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このように、大奥では御台所の呼称にせずに、和宮名で呼ぶことがあった為、大奥で朝廷側女中は和宮と呼び、幕府側女中は御台所と呼ぶと言う現象が発生したが、その後和宮に統一された。
新たな将軍の正室を迎える際には、元御台所は大奥の慣わしとして本丸・大奥の御台所の住居を去って西丸に移るのが一般的。しかし、幕末にはその慣わしも薄れており、天璋院も大奥御殿に残り、和宮と同居して、大奥で采配をした。ただし、これは、若い将軍と御台所を支え、公武合体を強固なものとする幕府側の意向でもあったとされ、天璋院が自ら望んで大奥に留まったのかどうかは良く分かっていない。
和宮から天璋院への贈りものであるお土産の包み紙に「天璋院へ」と敬称を付けなかった。公家風では一般的であるが、大奥での慣わしとしては不適切で、大奥の女中は不満だったと言う。
このように、和宮X天璋院の確執と言うよりは、皇女が武家に降嫁した例は初めてだった事からも、彼女らを取り巻く女中同士(天璋院91人、和宮71人)の争いになっていた。
浜御殿に将軍・徳川家茂、和宮、天璋院の三人で出掛けた際には、和姫と天璋院の二人だけの草履が踏み石の上にあり、将軍・家茂の草履は下に置かれていた。和宮は天璋院が先に降りようとしたのを見て、急ぎ飛び降り、自分の草履を除けて将軍の草履を上にあげ、お辞儀した。この出来事以降、天璋院と和宮の女中たちの争いが収まったと言われている。
■日本人で初めてミシンを使ったのは篤姫(天璋院)?
1862年3月25日付(日付は諸説あり)ニューヨーク新聞(現在のニューヨークタイムズ)で、駐日の記者マン・エンさんの記事で下記のような報道があった。
「先の将軍の御台様に献上したソーイングマシネ(ミシン)は、御台様の大変気に入るところとなり、この度、その返礼として、メーカーであるウイーラー&ウイルソン社に対し、金糸、銀糸で豪華な綾織の日本の織物が贈呈され、同社では、賓客用ショールームに、この珍しい日本の美術品を装飾展示している。」
どうも、このミシンは、マシュー・ペリー提督が1854年、横須賀に上陸した際に、将軍へ献上したものらしく、アメリカの外交官として始めて江戸を訪れ、徳川将軍に謁見した、タウンゼント・ハリス外交官を通じて、篤姫はウイーラー&ウイルソン社へ返礼の品を贈ったようで、当時の日本では大変貴重なミシン(ソーイング・マシーン)をもらったようだ。
1850年代はミシンが商品化されたばかりで、アメリカでも大変高価なもの。
その為、日本人で初めてミシンを使用したのは篤姫(天璋院)と唱える説もある。
■篤姫誕生の地「今和泉島津家本邸跡」
篤姫は鹿児島の今和泉島津家本邸にて生まれました。
篤姫が生れた今和泉島津家本邸跡がある場所は下記の地図ポイント地点となります。
<お断り>
下記の年表はそのまま旧サイトより移設した関係で、表示が崩れます。特にスマホの小さな画面ではかなりお見苦しい事になると存じますが、ご了承願います。
■年表
年 | 月日 | 篤姫年表 |
1836年 天保7年 |
12月19日 | 島津忠剛の娘として誕生。一姫。元服後は敬子。 |
1853年 嘉永6年 |
3月 | 島津斉彬の養女になり、鶴丸城に入り、篤姫と改名。 |
6月3日 | アメリカ東インド艦隊率いるマシュー・ペリー提督が4隻の黒船で浦賀沖に来航。 | |
8月21日 | 江戸に向けて鹿児島を出発。 | |
10月2日 | 京都・近衛邸に参殿。宇治などを見物後、10月6日伏見を出る。 | |
10月23日 | 江戸・芝にある薩摩藩邸に入る。 | |
1854年 嘉永7年 (安政元年) |
1月21日 | 島津斉彬が鹿児島を出発し、江戸へ向かう。(3月6日江戸着) |
2月27日 | 篤姫の実父・島津忠剛が磯別邸で病死(享年49) | |
3月3日 | 日米和親条約成立 | |
ペリー来航で海軍力急務と考えていた島津斉彬が建造した西洋式軍艦が完成し幕府に献上。 その際、日の丸を日本船章にすべきと献策し、正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となった。 |
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11月4日 | 安政東海地震(M8.4) 32時間後には安政南海地震(M8.4)も発生。この両地震から元号を嘉永から安政に改めた。 伊豆下田に停泊中のロシア軍艦「ディアナ号」は津波により大破沈没。 |
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1855年 安政2年 |
この年 | 肝付尚五郎が江戸藩邸の奥小姓として出仕。 |
10月2日 | 安政江戸大地震(M6.9) 江戸の町は多数の火災発生 | |
10月9日 | 阿部正弘は老中首座を譲り、佐倉藩主・堀田正睦(開国派)が幕府主席老中に就任 | |
1856年 安政3年 |
1月 | 肝付尚五郎が小松家の千賀(お近)の婿となり、小松家家督を継ぎ、小松帯刀となる。 |
4月14日 | 右大臣・近衛忠煕の養女となり、篤君と呼ばれるようになる。 前後して篤姫の養育係として近衛家にいた得浄院(のちの幾島)が京から江戸へ向かう。 |
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7月17日 | 朝廷より将軍家との婚姻の勅許が出る。篤姫君と呼ばれる。 | |
11月11日 | 篤姫と幾島が大奥に入り、11月19日に結納。 | |
12月18日 | 第13代将軍徳川家定と篤姫の婚儀が行われる。 | |
1857年 安政4年 |
6月17日 | 一橋派の中心、阿部正弘が39歳の若さで病死。以後、紀州派が頭角を現す。 |
この年 | 水戸嫌いの大奥は徳川家定の生母・本寿院、歌橋、瀧山らこぞって徳川慶喜擁立の動きに反発 | |
1858年 安政5年 |
3月 | 幕府の海軍伝習所の勝海舟が咸臨丸で薩摩・山川港を訪問。島津斉彬と会談し影響を受ける。 |
4月23日 | 大老職に紀州派の井伊直弼(開国派)が就任 | |
5月1日 | 将軍・徳川家定、紀州藩主・徳川慶福を継嗣とする内意を示す | |
6月19日 | 井伊大老は勅許なしで日本が不利で不平等な日米通商条約を結ぶ。 | |
6月25日 | 井伊大老は次期将軍を紀伊藩・慶福にすると発表。 | |
7月6日 | 徳川家定死去。享年35歳。篤姫は薙髪し天璋院を号する。 | |
7月16日 | 養父・島津斉彬、死去。享年50。 | |
8月8日 | 朝廷が直接水戸藩へ、条約締結を違勅とする勅諚を下賜。安政の大獄が始まる。 | |
10月25日 | 徳川慶福は13歳で第14代将軍になり、徳川家茂となる。 | |
12月 | 天璋院は従三位に。 | |
1859年 | 10月17日 | 江戸城・本丸の火災で天璋院は吹上へ避難、のち西の丸。 |
1860年 万延元年 |
1月13日 | 勝海舟は日米修好通商条約の批准書交換の為、咸臨丸の艦長として アメリカ・サンフランシスコへ渡米。通訳としてジョン万次郎や福沢諭吉も同行。 |
3月3日 | 桜田門の変 井伊大老が水戸藩浪士により暗殺される。享年46。 | |
8月15日 | 蟄居処分が解けぬまま水戸の徳川斉昭が心筋梗塞で急逝。享年61 | |
12月5日 | アメリカ公使館通訳・ヒュースケン、薩摩藩士に殺害される | |
1861年 文久元年 |
4月23日 | 島津久光が薩摩藩の実権を掌握。小松帯刀や大久保利通を重用する。 |
10月20日 | 和宮が輿入れの為、京を離れ、江戸に向かう。(11月15日江戸・清水邸に入る。) | |
1862年 文久2年 |
2月11日 | 第14代将軍徳川家茂と和宮の婚儀。共に16歳。 |
6月10日 | 勅使・大原重徳、島津久光に護衛され江戸に到着 | |
7月6日 | 一橋慶喜、将軍後見職に就任。 | |
8月17日 | 勝海舟、軍艦奉行に就任。 | |
8月21日 | 生麦事件 薩摩藩の行列を乱したとしてイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士が殺傷 | |
1863年 文久3年 |
2月8日 | 浪士隊 京の警護の為、江戸を出発し中仙道を京に向う (2月23日入京) |
3月4日 | 将軍・徳川家茂、入京 | |
3月16日 | 近藤勇ら壬生浪士残留組 京都守護職邸で会津藩主・松平容保に拝謁 | |
6月13日 | 将軍・徳川家茂、江戸に帰る | |
6月27日 | 生麦事件の賠償交渉で鹿児島(錦江湾)にイギリス艦隊が7隻が来航 | |
6月29日 | 高杉晋作 長州藩奇兵隊総督に任命 | |
7月2日 | 薩英戦争 イギリス艦隊に鹿児島藩の汽船が3隻拿捕されたのを契機に砲撃戦となり、 薩摩藩側は全砲台と集成館が全壊し鹿児島城も被害。イギリス艦隊は大破1隻・中破2隻 以後、藩主・島津久光から西郷隆盛ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る |
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8月18日 | 朝廷より壬生残留浪士組に新撰組の隊名が下賜される | |
11月15日 | 江戸城で火災。本丸・二の丸焼失により、天璋院は清水邸に移る | |
1864年 文久4年 |
3月27日 | 水戸天狗党の乱。藤田小四郎ら、筑波山で挙兵。 |
5月14日 | 勝海舟 軍艦奉行に昇進、安房守と称する。 | |
6月5日 | 池田屋事件 新撰組が長州藩を中心とする尊王攘夷派を襲撃する。 | |
7月19日 | 長州藩が、薩摩・会津両藩と京都市の蛤御門(はまぐりごもん)など各所で衝突 禁門の変 | |
8月2日 | 第1次長州征伐、8月5日にはアメリカなどの四国艦隊、長州藩の下関砲台を占拠 | |
1865年 慶応元年 |
1月2日 | 長州で挙兵した高杉晋作らが下関を占領し、以後長州藩の実権を握る。 |
4月14日 | 第2次長州征伐 | |
4月29日 | 清水邸から江戸城・二の丸に天璋院戻る | |
8月14日 | 和宮の生母・観行院が脚気と思われる病にて江戸城にて死去。享年40。 | |
この年 | 天璋院付きの御年寄・幾島が老齢の為、致仕(退官) | |
1866年 慶応2年 |
6月7日 | 幕府軍、長州を攻撃 |
6月16日 | イギリス公使・パークス、薩摩藩を訪問 | |
7月18日 | 幕府軍、石見方面で大敗 | |
7月20日 | 徳川家茂が大阪城にて死去。(享年21) 天璋院・瀧山らは、後継将軍に4歳の田安亀之助(後の徳川家達)を推挙。 |
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12月5日 | 孝明天皇が宣下し、徳川慶喜が第15代将軍に就任。 | |
12月25日 | 孝明天皇、天然痘?で崩御。(享年47) のち、明治天皇が即位する。 | |
この頃 | 江戸の薩摩藩邸で老女筆頭の小ノ島(小野島)が隠居。 瀧山も1866年後半までに御年寄を辞した模様。 |
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1867年 慶応3年 |
2月27日 | パリ万国博覧会開催。幕府、佐賀藩、薩摩藩が出品 |
10月3日 | 土佐藩前藩主・山内容堂、大政奉還を建言 | |
10月14日 | 大政奉還奏請。江戸幕府事実上の終焉。 | |
11月9日 | 和宮の女官・庭田嗣子、江戸城大奥で亡くなる。享年47歳前後。 | |
11月15日 | 坂本龍馬(33歳)中岡慎太郎 近江屋で襲撃され、死亡。 | |
12月8日 | 西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視らが御所で明治天皇臨席の元、 江戸幕府を廃止、摂政・関白その他朝廷の旧制度を廃止=王政復古の大号令 |
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1868年 明治元年 |
1月3日 | 鳥羽伏見の戦い 幕府軍15000は総大将・徳川慶喜が旧幕府軍を残したまま 江戸に退却した為、新政府軍5000に敗れる。 |
1月12日 | 徳川慶喜は江戸城に入り勝海舟と善後策を論じる。 | |
1月23日 | 勝海舟 陸軍総裁若年寄に任命され、徳川慶喜より全権を任される 榎本武揚 海軍副総裁に任命 |
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3月6日 | 近藤勇、土方歳三ら甲陽鎮撫隊(約270名)が甲州勝沼の戦いで 板垣退助・伊地知正治ら新政府軍に敗れる。 一方、西郷隆盛ら新政府軍は江戸城総攻撃を3月15日と決定。 |
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3月14日 | 明治天皇、五箇条の御誓文を発する 江戸田町の薩摩藩邸にて、西郷吉之助と勝海舟が会談。江戸総攻撃中止。 板垣退助 西郷吉之助を訪問し総攻撃中止に抗議。 |
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4月4日 | 新撰組局長・近藤勇が薩長軍に投降 (4月25日板橋平尾一里塚で斬首。35歳。) 天璋院に朝廷よりの江戸城退去命令が伝えられる |
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4月11日 | 江戸城開城。天璋院は本寿院と共に4月10日に一橋邸へ入る。 また前後して、天璋院の官位剥奪。 |
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5月24日 | 徳川家、駿府に封じられ、70万石。 | |
8月19日 | 榎本武揚、幕府の艦隊8隻を率い品川沖より脱走。 | |
8月21日 | 会津・母成峠の戦い 新政府軍2000に対して会津藩は白虎隊・新撰組を含めて700で敗退 大鳥圭介隊、土方歳三隊敗走 |
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9月22日 | 会津藩が新政府軍に降伏 (会津戦争)。のち会津藩は23万石から3万石に転封 | |
10月13日 | 明治天皇が江戸城に入り、江戸城は皇居となる。 | |
10月25日 | 榎本武揚らが函館五稜郭を占領 | |
1869年 明治2年 |
5月11日 | 新政府軍、五稜郭を総攻撃。函館で土方歳三戦死 (享年35) |
5月18日 | 榎本武揚 新政府軍に降伏 (函館戦争)。 | |
1870年 明治3年 |
8月16日 | 小松帯刀が大阪にて病死(享年36) |
10月9日 | 岩崎弥太郎、土佐商会を設立 | |
1871年 明治4年 |
7月14日 | 廃藩置県 |
11月12日 | 岩倉使節団派遣。岩倉具視を特命全権大使として条約改正、海外視察を行う | |
1872年 明治5年 |
7月19日 | 西郷隆盛、陸軍元帥・近衛都督になる |
9月13日 | 新橋-横浜間の鉄道開業 | |
1873年 明治6年 |
1月10日 | 明治政府、徴兵制導入。 |
10月24日 | 西郷隆盛、明治政府・筆頭参議の職を辞任し、鹿児島へ帰郷 | |
10月25日 | 伊藤博文、勝海舟、寺島宗則ら、参議に任命 | |
11月29日 | 明治政府は大久保利通の独裁体制となり、大久保利通は内務卿に就任 | |
12月25日 | 島津久光、内閣顧問に任命される (明治8年には隠居) | |
1876年 明治9年 |
1月11日 | 廃刀令を発布 |
この年 | 川口(埼玉)で隠居していた瀧山、72歳で没。 | |
1877年 明治10年 |
2月15日 | 西南戦争 西郷隆盛らが反乱、薩軍14000は2月21日に熊本城を襲撃。(日本最後の内乱) |
3月 | 3月1日より約1ヶ月間、田原坂で激戦となり、結果的に薩軍は撤退 | |
9月24日 | 鹿児島県城山陥落。西郷隆盛も鉄砲を受け負傷し自刃(49歳)、桐野利秋らも自刃。西南戦争終結 | |
10月 | 天璋院は千駄ヶ谷の徳川邸へ移住 | |
1878年 | 5月14日 | 大久保利通が東京・紀尾井坂にて暗殺される(享年49) |
1880年 明治13年 |
姉小路死去(80歳) 天璋院9月23日から10月31日 熱海・箱根方面で逗留 |
|
1882年 | 徳川家達は近衛泰子(近衛忠煕の孫)と結婚 | |
1883年 明治16年 |
11月20日 | 天璋院死去。(享年48) 死後、従三位復位。 |
1884年 | 小松千賀(お近)没。推定で享年60歳位。 | |
1885年 | この年 | 本寿院、一橋邸にて死去。(享年75) |
1887年 | 12月18日 | 島津久光 鹿児島で国葬 (享年70) |
※年月日や年表内容には異なる説があるものもございます。
・徳川家定 徳川幕府の第13代将軍 幕末期の将軍
・御年寄「幾島」とは~篤姫に仕えて大奥に入った薩摩の女性
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・東京にある西郷隆盛と勝海舟の関連史跡10選~便利な行き方や地図も
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コメント
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2015年 11月 08日トラックバック:徳川家定 徳川幕府の第13代将軍 幕末期の将軍 – 幕末維新
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2016年 9月 04日
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2016年 11月 25日
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2016年 12月 08日
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2017年 1月 16日
非常に面白く読ませていただきました。これから先も何回も読ませていただきますが、ふりがなをふって欲しいですね。
なかなか読めない。特に名前が読めない。期待します。