岩倉使節団(欧米使節団) 彼らが目にした欧米諸国の近代文明とは

岩倉使節団



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江戸幕府から明治政府へと政権が移って間もない、1873年9月13年(明治4年11月12日)、日本から欧米諸国へ向けて派遣された使節団が岩倉使節団である。
使節団の人員は岩倉具視を団長として、木戸孝允桂小五郎)・大久保利通伊藤博文・山口尚芳といった政府首脳や書記官など使節46名、その他に随員、留学生など総勢107名により構成。
その目的は、各国に友好な関係を求めるために天皇の国書を届けることと、欧米の発展した文明や政治・経済・司法・教育などの制度を視察することにあった。

当初10ヶ月で欧米14ヶ国を訪問する計画だった岩倉使節団であったが、アメリカ合衆国やヨーロッパ12ヶ国、そして当時ヨーロッパ諸国の植民地であったアジア各地などを巡った行程は1年10ヶ月にも及んだ。

そんな岩倉使節団が旅した欧米諸国で体験したこと、そして目にしたものとはいったいどのような世界だったのであろうか。



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今回は、岩倉使節団の欧米での体験や、そこで得たものはなんだったのか、といったことについて迫ってみたい。

アメリカ合衆国訪問

1871年12月23日(明治4年11月12日)、岩倉使節団は横浜港を出発。そして1872年1月15日(明治4年12月6日)、太平洋を渡った一行はアメリカ合衆国カリフォルニア州・サンフランシスコに到着する。そこから、岩倉具視や、木戸孝允ら若き官僚たちはアメリカの進んだ文明を視察しながら、首都・ワシントンを目指したのだった。そこでアメリカ合衆国第18代大統領、ユリシーズ・グラントに天皇の国書を渡す予定であった。

19世紀の西部開拓時代に急速な発展を遂げたサンフランシスコで、使節団一行は西洋の近代文明を目の当たりにする。巨大なビル・エレベーター・水道など、生活の隅々にまでいきわたる、今まで見たこともないような科学力や進んだ文明社会に、彼らは圧倒されたことであろう。

当時の日本は、幕末から明治にかけての江戸幕府との戦いから2年半余り。そして、廃藩置県により、地方を藩が統治することを廃止し、全国を明治政府が治めるようになったのがまだ4ヶ月前のことである。政府への税もお米のままで、経済や産業なども江戸幕府の頃と変わらない状況といえた。そういう意味では、新しい国づくりはまだ始まったばかりであった。

アメリカ各地を訪問して行く中で、現地の人々は太平洋を渡ってきた彼らを歓迎し、行く先々で晩餐会に招かれた。日本からの訪問者ということで注目を浴び、新聞に掲載されるなど予想以上の反響を呼んだ。



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1872年2月29日(明治5年1月21日)、使節団一行はワシントンに到着しグラント大統領に謁見。天皇の国書を渡した。これにより、アメリカ訪問の目的は果たされたのだった。

不平等条約改正の交渉

グラント大統領に国書を渡したことにより、アメリカでの目的を果たしたはずの岩倉使節団であったが、アメリカ側の予想以上の歓迎ムードに自信を持ったことで、官僚の一人であった伊藤博文が一行に大胆な提案を打ち出した。不平等条約の改正である。

不平等条約とは、かつて江戸幕府が欧米諸国と結んでいた、日本側に不利となる条約のことで、主な内容としては以下のことが挙げられる。

● 領事裁判権:日本国内において欧米人が犯罪を犯した際には、日本の裁判を免がれ、裁く権利を有するのはその国の領事となる

● 関税自主権を認めない:欧米各国からの輸入品に日本側が関税を決められない

今、この時こそ、伊藤は日本にとって非常に不利な条約の改正に勝算ありと考えたのだ。伊藤博文は、使節団の政府首脳陣の中では最年少であったが、以前、欧米に1年あまりの滞在経験があることから、外国の事情通として信頼を得ていた。そして、伊藤の提案に一同も同意する。

しかし、伊藤や首脳陣の思惑とは裏腹に、アメリカ政府との交渉は難航するのであった。

アメリカ政府との交渉の席で、一行は「受け取った国書には、あなた方には条約に調印する権限を持っている」とは記されてはいないと指摘された。国家間における条約の調印には、国家元首からその資格を委任されているという証拠が必要なのである。まさに、国際外交におけるルールの認識不足であった。

そこで、伊藤博文と大久保利通は、ただちに天皇から全権委任状を取り付けるために日本に戻る。その間、岩倉具視と木戸孝允がアメリカ政府との条約改正の交渉に臨むこととなった。

残った岩倉と木戸は、領事裁判権の撤廃と関税自主権を認めるよう申し出る。しかし、アメリカ側はこの要求を無視し、さらに貿易に関する条件など、アメリカの利益を優先させる項目を突き付けてくるのであった。世界を知らず、外交下手の日本首脳を見下し、あざ笑うかのような態度にも思えた。

外交交渉とは、譲り合いではなく、あくまでも互いの利益を勝ち取るための戦いの場であることを、岩倉と木戸をはじめ、使節団一行は思い知るこことなったのである。

当然、交渉は難航し、平行線が3ヶ月以上続く。そして、さらに長引くことが予想される状況であった。そこに輪を掛けてトラブルが勃発。アメリカとの交渉により、使節団の予定は大幅に遅れていた。本来ならばヨーロッパ諸国を訪問しているはずである。そこに、イギリスの外交官が使節団に抗議に訪れたのである。

「大英帝国に対し、礼を失している」と抗議された岩倉や木戸は、アメリカの歓迎ムードに流され、安易に条約改正の交渉を行ってしまったことを後悔するのであった。



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アメリカとの交渉開始から4ヶ月後、明治5年(1872年)6月17日、天皇からの全権委任状を受け取った伊藤と大久保がようやくワシントンに到着する。しかし、交渉は平行線のまま、伊藤と大久保が到着したこの日に条約改正の交渉は打ち切られてしまった。二人の奔走は徒労に終わったのである。当初、10ヶ月で14ヶ国を訪問する予定だったのが、最初の一国だけで8ヶ月も費やしてしまっていた。

イギリス訪問

岩倉使節団は大西洋を渡り、1872年8月17日(明治5年7月14日)、イギリス・リヴァプールに到着。それから、ロンドン・ブライトン・ポーツマス海軍基地・マンチェスターを視察しスコットランドへ。グラスゴー・エディンバラ・ハイランド地方を経てイングランドに戻り、ニューカッスル・ソルテア・ハリファクス・シェフィールド・バーミンガム・ウスター・チェスターなどを訪問しロンドンに戻るという行程であった。

産業革命から100年余り。大規模な工業化により「世界の工場」とまで呼ばれるほどの発展を遂げているイギリス。日本と同じような小さな島国であるイギリスが、どのようにしてこれほどの繁栄に至ったのか。使節団はその発展と繁栄の秘密について探りたいと考えていた。

一行は、造船場や製鉄場など、蒸気機関によってありとあらゆる製品を造りだす工場が、イギリスのいたる所にあることに驚愕する。そこでは工業製品だけでなく、食料品に至るまでさまざまなものが機械で大量生産されていたのだった。ほぼ工場がない日本とは、そこには大きな差があったといえる。

そして、日本との発展の大きな差は工場の問題だけではないことも知らされることとなる。それは、貿易であった。

イギリスは、世界各地から安価な原材料を輸入し、それを国内の工場で加工。その製品を世界各地に輸出するというシステムが確立されていた。工場と鉄道や船などの輸送が連携し、安く品質の良い製品を売ることによって富を蓄えていたのだ。このシステムこそが、イギリスが「世界の工場」と称される所以であった。

しかし、それらの繁栄もメリットばかりではないことも目の当たりにする。例えば、日本にはまだ確立されていなかった銀行の金融経済のシステムである。ある日一行は、この銀行のトラブルに巻き込まれることとなったのだ。

ある銀行の関係者だという人物と会い、所持金を預けてみないかと持ち掛けられる。銀行に預けたお金は、産業を動かす資金となり、預けているお金にも利子により利益を得る仕組みになっている。一行の多くはその人物の話を信じ、総額で約2万5千ポンド(現在の日本円で約5億円)を銀行に預けたのだ。

ところが、後日、お金を預けていた銀行が、経営の悪化により破綻してしまう。その知らせを受けた一行は、慌てて銀行に向かうと、そこには「預り金の引き出しはできません」という張り紙だけが残されていたのだった。一行の多くは多大な損害を被り、所持金のほとんどを預けていた者もいた。利益と損害が表裏一体となっている経済システムの恐ろしさを身をもって知ったのだった。



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また、イギリスの繁栄という光の部分に対し、影ともいえる面にも遭遇する。大久保と木戸が、ロンドン下町のイーストエンドを視察していた際、夜の暗い通りを歩いていたときに、大勢の浮浪者が溢れているのを見かけたのだった。まさに、昼間のロンドンの賑わいとは真逆の光景である。

経済発展により、一部の資本家に富が集中する一方、多くの労働者は低賃金で働くことを余儀なくされている実情。食べることもままならない人々も少なくなく、その中には盗みを働く者やアヘンに手を染める者も増加し、イギリス社会の治安は悪化の一途を辿っていた。イギリスという、世界最先端の資本主義国家が抱える影とも闇ともいえる表情であった。

ベルギー訪問

アメリカからヨーロッパへ渡り、イギリス、そしてフランスと大国を訪問して、次に訪れたのはベルギーであった。日本の九州よりも小さな面積の小国、ベルギー。オーストリアやフランスなどの強大な軍事力を有する国に、幾度も支配下に置かれてきた歴史を持つが、その都度独立を勝ち取ってきた国でもある。

強大な国に囲まれながらも、しっかりとその足で歩んできた小国。岩倉使節団一行は、同じ小国が生き残っていく術を、このベルギー訪問で見出すことができるかもしれないと、興味を抱いていた。

その頃、ベルギーは工業化が進む真っ只中にいた。しかし、ベルギーの発展は、大国のように工場の大量生産などで資本家が富を得て、雇われた労働者が低賃金で働かされるというシステムとは異なっていたのだ。

ベルギーの発展を支えていたのは、職人たちの高い技術力が生み出した工芸品だったのである。レース織やガラス製品など、伝統的な手作りの工芸品は、ヨーロッパ最高級とも称えられるほどであった。その美しい工芸品の数々は、芸術の都フランスのパリでも珍重されていた。そういった工芸品を輸出することにより、ベルギーは多大なる利益を得ていた。その富の力によって、ベルギーの国民は大国の支配から、政治や裁判などの権利を獲得してきたのである。

自由と独立を得るため、ベルギーの職人や商人一人一人が己の生業に全力を尽くす。その姿に使節団一行は感銘を受けるのであった。このベルギーに生きる人々の光景に、日本が目指すべき一つの道しるべを見出したのかもしれない。そういった思いを胸に、一行はベルギーを後にしたのだった。

ドイツ訪問

ベルギーの次にオランダを視察した岩倉使節団はその後、明治6年3月7日(1873年3月7日)、ドイツを訪問。農業を主な産業としていたドイツは、小さな国々が集まっている国であった。さらに、統一国家が成立したのが2年前という、当時の日本の境遇と似た国でもあった。そして、フランスなどの大国に戦争で勝利を収め、小国の地位から大国へと躍り出ようとしているときであったのだ。



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使節団一行は、明治6年3月15日(1873年)、ベルリンにてドイツ宰相のオットー・フォン・ビスマルクが主催する歓迎会に招かれた。ここで一行は、ビスマルクが考える国際政治の本質と、小国が生き抜いていく術を説かれたのだった。

「大国は自国に利益があるのであれば国際法に従うのだが、ひとたび不利とみれば、たちまち軍事力にものをいわせてくる。そのような国際社会において、小国が主権を守るためには、軍事力に頼ることも必要なのである。何故ならば、それぞれの国が対等の力を持つことにより、はじめてお互いが侵略せずに主権を守り合う、公明正大な国際社会が実現するからである」

まだ、国際社会に参加したばかりである日本の首脳は、国際法をルールとして守ることが重要だと捉えていた。しかし一行は、ビスマルクの現実に徹した外交術に刮目することとなる。

それから、ビスマルクは日本が似た境遇であるドイツをお手本とするのであれば、ドイツより日本に指導者としての人材を派遣してもよいと提案を持ちかける。

ところが木戸孝允は、ビスマルクのこの提案を断ったのであった。そして、木戸はビスマルクに語った。

「わたくしたち日本は、長年に渡り国を鎖(閉)してきたので、国際社会に暗いところがあり、まだ世界の中でどう生きていくか研究する余裕さえありません。今の日本は、国際的に残念な状況です。しかし、願わくば、そこから自分自身の手で努力を重ね、速やかにしかるべき地位へと進みたいと考えています」

ここに至るまで、欧米諸国の進んだ文明と繁栄を、さまざまな視点から目の当たりにしてきた岩倉使節団。そこには、驚きや感銘もあった。しかし、それらの国々の発展を見てきた彼らが、これからの日本を担い、どのような道を歩んでいくのか。急ぎながらも、拙速にならぬよう、自分自身で判断していきたい。それが木戸、そして使節団一行の気概であった。

岩倉使節団の帰国

それから、日本政府からの帰国命令が岩倉使節団に下る。一行は、ドイツの後、ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストラリア・スイスなどを巡り、帰国の途につく。

そして、明治6年9月13日(1873年)、岩倉使節団は、1年10ヶ月にもおよぶ旅を終え、横浜港に帰着した。
岩倉使節団として欧米諸国を旅した面々は、その後、それぞれの分野で近代日本の礎を築いていくことになる。



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国もさることながら、人の生き方も、成長と発展の道筋はさまざまである。それぞれに合った、発展の方法と選択肢。それらを模索しながら、自分たちの生きる道を進んでいく。成功者の良い点は参考にしながらも、決して全てを模倣するのではなく、独自の道を切り開いていくことこそ、日本が生き抜いていく術である。
まさに、現代の日本を象徴するオリジナリティ溢れる思想。その出発点となったのが、岩倉使節団がもたらしたモノだったのではないだろうか。

(寄稿)探偵N

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