本居宣長 古事記伝に込めた想いとは

本居宣長

本居宣長、その名は聞いたことはあるものの、実際のところどんな人物なのかあまり知らないという人が多いのではないだろうか。
江戸時代中期に生きた人物で、国学者と称される宣長だが、一般的には「古事記伝」の著者として知られている。
全44巻からなる「古事記伝」だが、書き終えるまでに30年以上もの年月を費やしている。
今回は本居宣長が残した「古事記伝」とは何なのか、そして「古事記伝」に込められた想いとは何なのか、宣長の生涯と共に迫ってみたい。



本居宣長 (もとおり・のりなが) 幼名/小津富之助 (おづ・とみのすけ)

1730年6月21日(享保15年5月7日)~1801年11月5日(享和元年9月29日)
伊勢国(三重県)松坂の小津家で誕生した本居宣長。
幼名は小津富之助だがここでは本居宣長で統一する。
医者、そして国学者として活動した宣長は生涯で50冊の書物を残している。
その中の一冊に「古事記伝」があり、生涯をかけて完成させた宣長の代表作でもある。

京都での修学期間

宣長は19歳の頃、伊勢山田の商家の養子になっているが3年後に離縁している。
しかし、この期間に宣長は神道や源氏物語などの宗教・文化・文学に触れることとなる。
松坂に戻った宣長は22歳のときに義兄が亡くなり家業を継ぐ。
しかし、商売に関心のなかった宣長はすぐに辞めてしまい医師を志して京都へ遊学している。

京都での医学の勉学に励んだ時間は宣長の人生にとって計り知れない影響を与えることになったであろう。
宣長は堀元厚(ほり・げんこう)や武川幸順(たけかわ・こうじゅん)らに医学を学び、堀景山(ほり・けいざん)に師事して儒学を学ぶ。
景山は国文学への造詣が深く、宣長はそこで歴史や古典について学ぶこととなり、古典の世界へ導かれるきっかけとなった。

そして5年半の京都での修学を終え、28歳のときに松坂に再び戻った宣長は開業し医師となる。

古事記の研究

医者として働くかたわら、宣長は源氏物語や日本書紀などの古典文学の研究に没頭した。
その中で宣長は古典や和歌などに時折用いられる「もののあわれ」を知るという意味を解き明かすことこそ、そこに描かれた文化や人の心を紐解く鍵になると考えたのだった。
そして宣長はある一冊の歴史書と向き合うこととなる。
古事記である。



現存する日本最古の歴史書である古事記は、天武天皇から語り聞かされた日本の歴史を、稗田阿礼(ひえだのあれ)が太安万侶(おおのやすまろ)に伝え書き上げられた書物。
西暦712年(和銅5年)に完成した古事記だが、当時はまだ、ひらがなやカタカナはなく、文は全て漢字で記されている。
現代の書物のようにひらがなやカタカナも用いられていれば言葉として理解できるため解釈もしやすい。
ところが全てが漢字の場合、実際に天武天皇や稗田阿礼がどのような言葉を使って語ったのか想像することや解釈も難しい。

古事記に記されている漢字の本来の読み方を解き明かすことこそが、天武天皇が語った言葉を知り、心を紐解くことに繋がるのではないか。
宣長はそう考え、その生涯をかけて古事記の研究を始めることになるのだった。

賀茂真淵との出会い【松坂の一夜】

古事記の研究を始めた宣長であったが、一人の力だけでは思うように進まなかった。
そこで参考にしたのが、国学者として名高い賀茂真淵(かもの・まぶち)著の漢冠辞考(かんじこう)という万葉集の枕詩の意味や用法を記した研究書であった。
そして宣長は次第に賀茂真淵に教えを乞いたいという思いが募っていくのだった。

そんな宣長に運命の出会いが訪れる。
宣長34歳のときだった。
賀茂真淵が宣長の住む松坂の地を訪れていたのだ。
そうと知った宣長は招待状も持たず真淵の宿を訪問する。
その宣長を真淵を温かく迎えてくれたのだった。

1763年(宝暦13年)5月25日、ついに宣長は真淵との対面を果たした。
宣長は真淵に古事記の研究をしていることを伝え、教えを乞いたいことを願う。
真淵も宣長の願を快く受け入れ、これから手紙のやり取りを通じて指導してくれることを約束してくれたのだった。
このときの二人の出会いは【松坂の一夜】として語り継がれている。

そして、生涯の師を得た宣長と、師となった真淵の手紙のやり取りは、当時67歳だった真淵が亡くなるまで5年半に渡り行われることとなる。

古事記伝の完成

賀茂真淵の教えを手紙で受けながら、宣長は古事記の研究と執筆を進めていく。
日中は医師としての仕事をしながら、夜は古事記研究と執筆に勤しむという日々が続いていった。
そんな中、宣長が39歳のとき母を亡くし、そして40歳のときには師である真淵が亡くなるのであった。
最愛の母や師との別れを経験した宣長は、これからは自分自身の足で歩んでいくことを誓い、人生の集大成ともいえる古事記研究の完成にむけ突き進んでいくのだった。

古事記に記されている漢字から、その意味を解き明かし、そして読み方を紐解いていく。
そんな気の遠くなるような膨大な作業は、賀茂真淵との出会いから約35年にもおよび、ついに1798年(寛政10年)6月、宣長69歳のとき古事記の解説書「古事記伝」全44巻が完成した。



その3年後の1801年11月5日(享和元年9月29日)、本居宣長は伊勢国の松坂にて72年の生涯を終えた。

本居宣長の古事記伝への想い

「心力を尽くして書いた」古事記伝を書き上げた宣長が語った言葉である。
そして、古事記の中には時折「名義ハ未ダ思得ズ(ナノココロハイマダオモイエズ)」ということが記されている。
これはつまり【わからない】という意味である。
今の自分では心力を尽くしたもののわからないから、後世の人々へその答えを委ねるということなのだ。

たとえわからないことがあったとしても、今まで誰もわからなかったのだから自分なりの解釈でもよかったはずだ。
それをわざわざ「わからない」と記しているのは、むしろ調べ尽くした結果、わからないことがわかったという発見ではないだろうか。
心力を尽くした宣長だからこそ、堂々と記せることであり、現在の研究では解明することができないということを後世に伝えているようにも感じられる。



そして、私はここまでやってみました。
跡を継ぐ者よ、後は頼んだぞ。と伝えているかのようである。

(寄稿)探偵N

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