長野主膳  大老を陰で操った参謀国学者

長野主膳は、伊勢国飯高郡滝ノ村の出身で、1815年10月16日に生まれた。

先祖は上州長野家とも伝わるが、出自や若い頃は不詳。

本居宣長の国学に興味を持ち国学者となると、紀州新宮の領主・滝野次郎左衛門の妹である滝と恋におちたと言う。
そして天保12年、長野が27歳、滝が31歳のとき結婚し、京に上ると近畿・東海道の各地を巡遊し、最後に近江・伊吹山の麓にある坂田郡志賀谷村の阿原家に落ち着き、1841年に「高尚館」という国学塾を開いた。

天保13年(1842年)、当時部屋住みで、将来が無かった14男・井伊直弼とは同年代で、この私塾に興味を持った井伊直弼と意気投合し、2人は師弟関係を結んだ。

やがて、思いもよらず井伊直弼が彦根藩主に就任すると、長野主膳は一介の浪人学者から150石として彦根藩校・弘道館の国学方に取り立てられ、彦根藩の改革に協力した。

井伊直弼が大老になると、江戸にて補佐するなど信任は厚く、安政5年(1858年)に一橋派と南紀派による将軍後継者争いが起こると、命を受けて京都に赴き、公家への裏工作を行い、南紀派が推薦する徳川慶福(徳川家茂)擁立に貢献した。

しかし、安政の大獄を行った井伊直弼に、一橋派の処罰や尊王攘夷派の志士の処罰を進言していた為、尊王攘夷派からは井伊直弼と共に恨まれた。

これら、井伊直弼が大老として実行したほぼすべてである、紀州慶福の将軍世子、勅許なく条約を結ぶ、和宮降嫁、安政の大獄を開始など、陰で操ったのは長野主膳だとみる見方も多い。

安政7年(1860年)、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された後も、長野主膳(ながのしゅぜん)は彦根藩の藩政に参与したが、つぎの藩主・井伊直憲からは疎まれ、家老・岡本半介と対立した。

そして文久2年(1862年)、文久の改革で井伊家が問罪されると、岡本半介の進言を聞き入れた藩主・井伊直憲によって投獄され、斬首・打ち捨ての刑に処せられた。享年48。

打ち捨ての刑にともない葬礼は禁止されたが、明治期になって井伊直弼が顕彰されると、彦根の天寧寺に墓所が建立されている。

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