村田新八とは~西郷どんと共に西南戦争まで従った初志貫徹の薩摩武士


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村田新八(むらた-しんぱち)は、西郷隆盛と共に西南戦争を最後まで戦って戦死しましたが、将来を嘱望された有能な人材でもありました。
そんな、村田新八の足跡や西郷隆盛との関係を記載してみます・・。

村田新八は、鹿児島城下である加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)にて、江戸時代後期・天保7年(1836年)11月3日に誕生しました。
西郷隆盛が生まれたのは、1827年12月7日ですので、村田新八は9歳年下となります。
なお、1836年生まれの幕末志士などでは、坂本龍馬・新見錦・井上薫・篤姫(天璋院)・五代友厚松平容保山岡鉄舟榎本武揚など、そうそうたるメンバーがいます。

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村田新八の父は高橋八郎となりますが、3男坊だったため、幼いころから養子として村田十蔵(村田経典)に出されたと言う事になります。
新八と言うのは通称で、正式な名前は村田経満(むらた-つねみつ)です。

加治屋町は下級武士の居住地であり、年少のころから村田新八は、加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)出身の西郷隆盛より指導を受けたようです。
西郷隆盛を深く尊敬していたとされますが、最後まで付き従う事になります。

1861年、村田十蔵の長女・村田清と結婚し、長男・村田岩熊、次男・村田二蔵など3男1女に恵まれています。

1862年3月10日、肥後勤皇党の熊本藩士・宮部鼎蔵らが薩摩に入ろうとした際には、有馬新七らと止めています。

そのあと、島津久光の上洛予定に先立って下関で待機する命を受けていた、西郷隆盛・村田新八は、待ちきれず森山新蔵ね伴い、京都に入って情勢を探ります。
このように命令違反や、京都にて真木保臣・有馬新七らがのち起こす寺田屋事件を煽動したのではと言う事で、西郷隆盛と村田新八は捕縛されました。
薩摩に戻った西郷隆盛(34歳)は徳之島(そのあと沖永良部島へ)、村田新八(25歳)は喜界島への遠島を申し渡されます。
ちなみに、森山新蔵(42歳)は、伏見寺田屋にて子の森山新五左衛門(20歳)が重傷を負って自害したことを知り、自らも自害して果てています。

1864年、大久保利通小松帯刀らの尽力もあり、西郷隆盛が罪を許されると、薩摩に戻る際に、喜界島に蒸気船を寄港させて、村田新八も連れて戻りました。

その後、村田新八は、薩長同盟を結ぶ西郷隆盛を支援するかのように、長州藩主・毛利敬親に拝謁もするなど行動しています。
また、長州藩の伊藤博文らとともに長崎から上海訪問も果たすなど外遊経験も得ました。

王政復古発令のあとには、京都で歩いていたところを新選組に襲撃され、軽傷を負っています。
そして、鳥羽伏見の戦いでは、淀の戦い・八幡の戦いと活躍し、西郷隆盛が東征大総督府の参謀となると、一番小隊長に中村半次郎、村田新八は二番小隊長、篠原国幹が三番小隊長など、先鋒隊を任されました。

そして、村田新八は駿府城、小田原城と進軍しますが、西郷隆盛に随従し、会談でも護衛を果たしました。

上野戦争の後は、引き続き二番小隊を率いて、東山道軍の応援を行い、白河城の奪還戦、二本松城の戦い、会津・若松城の攻囲戦にも参加しています。

明治新政府においては、鹿児島常備隊の砲兵隊長を務めていますが、明治4年(1871年)には西郷隆盛の推挙で宮内大丞に任命されています。
宮内大丞(たいじょう)と言うのは宮内庁の職員(上判官)となります。

恐らくは、国際法などにも詳しかったのでしょう。
アメリカとの約改正のために全権大使・岩倉具視が派遣される際には、薩摩藩からは大久保利通と村田新八が岩倉使節団に加わっています。
岩倉使節団の皆が、外国で燕尾服などを新調しても、村田新八は日本から持ってきた洋服で十分であり、中身で勝負だと異彩を放っていたと言いますが、大久保利通も村田新八のことを評価し、東京に戻ってからは片腕になって働いてもらおうと考えたようです。
勝海舟も、村田新八のことを「彼は大久保利通に亜ぐの傑物なり」と称賛しています。
このように政治家としても有能な村田新八は、それまで武闘派とも感じられる道を歩んできた訳ですが、ヨーロッパではアコーディオンの音色に心を打たれたようで、日本に持ち帰ると、のち西南戦争の際にも手元に置いていたと言います。
また、和歌も漢詩もたしなんであり、多くの作品や書簡が残っているそうです。

しかし、明治7年に岩倉使節団が日本に戻ると、西郷隆盛はすでに下野しており、薩摩に帰郷していました。
そのため、村田新八も政府の職を辞して、薩摩に帰ると、桐野利秋・篠原国幹らと私学校を創立し、砲隊学校と章典学校の監督を務めています。
そして、士族の誇りは傷付けられ、生活に困るようになり、不満が募らせ、西郷隆盛を慕う若者たちを、まっすぐに育成しようと試みました。

また「西郷先生は私利私欲で動くような者ではなく、日本を背負っていける英雄と信じて疑いもはん」と、一時は帝国宰相へとも考えています。

明治10年(1877年)、私学校で出兵が決定された際に、村田新八はあまり発言はしなかったとされますが、薩軍が組織されると、村田新八は二番大隊・大隊長になりました。
一番大隊の大隊長は篠原国幹です。

熊本に入ると、村田新八の2番大隊は、熊本城攻撃に加わっています。
熊本城をなかなか落とせずにいたところを、政府軍が北から迫ってきたため、村田新八は、篠原国幹・別府晋介、桐野利秋らの主力軍として、5個小隊・約1000名を指揮して吉次・伊倉方面に展開し、高瀬で政府軍を挟み撃ちしようとしました。
そして、村田新八は吉次峠・原倉へと軍を進めましたが、約1ヶ月間、一進一退の膠着状態となりますが、篠原国幹は戦死するなど徐々に状況が悪くなります。

そして、1877年3月20日、田原坂の戦いにて薩軍は敗れて退却を開始し、熊本城の包囲も解くと、木山まで撤退しました。
なお、長男・村田岩熊は田原坂にて戦死しています。

西郷隆盛・村田新八らは、更に人吉城に後退しますが、この頃には、村田新八は池上四郎と共に本営で軍議に加わる状態までになっており、自ら全軍を指揮して政府軍と戦いますが大敗しました。
そのあとも、敗戦一方で、宮崎・鹿児島の山岳部を踏破して、西郷隆盛らに鹿児島に戻っています。

次男・村田二蔵は鹿児島に戻る途中で負傷して病院に入っていたため、村田新八は手帳などを託し、幼い3男を頼むと言い残しました。
のち、村田二蔵は長井村で投降しています

鹿児島の城山に籠った薩軍ですが、村田新八らは一度、西郷隆盛の命だけでも救う道はないかと新政府軍に使者も出したようですが、もう道は残されておらず、大切にしてきたアコーディオンも焼却したと言われます。
1877年9月24日、新政府軍は、ついに城山への総攻撃を開始しました。
西郷隆盛は、桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太らを整列させると、岩崎口へと突撃し、一矢を報います。
村田新八は、西郷隆盛自刃を見届けた後も、果敢にも岩崎口で戦闘を続けましたが、桐野利秋らとともに戦死しました。享年42。

シルクハットにフロックコートという格好で指揮していたと言う村田新八は、城山を完璧に包囲する政府軍を見て「近い将来外国と戦う時のいい練習になる」と笑っていたと言う逸話があります。
敵となった政府軍と言えども、この死に物狂いで戦う薩軍を相手に、貴重な戦闘経験となり、のち日本を守る訓練となるよう、村田新八は降伏せず、最後まで戦う姿勢を貫いたのではないかと思えてなりません・・。

村田新八の墓がある場所は、西郷隆盛らも眠る南洲墓地にあります。

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