平岡円四郎 一橋家の家老で慶喜の側近


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平岡円四郎(ひらおか-えんしろう)は、幕末の1822年10月7日に、旗本・岡本忠次郎の子として生まれました。
そして、旗本・平岡文次郎の養子となり、一橋慶喜の側近として活躍しました。

幼いころから聡明だったようで、その才能を藤田東湖や川路聖謨に認められ、水戸の徳川慶喜が一橋家に入った際に、一橋家の小姓として推薦されたとの事です。

1858年、徳川家定の将軍継嗣での争いとなると、一橋慶喜の父の徳川斉昭や、薩摩藩主の島津斉彬などが推したように、平岡円四郎と家老の中根長十郎は、一橋慶喜を将軍に擁立しようと奔走します。
しかし、井伊直弼らが推した徳川家茂が将軍となり、安政の大獄では一橋慶喜は謹慎処分になり、平岡円四郎も一橋派の危険人物とみなされ、小十人組にと左遷させられました。

安政6年(1859年)には、甲府勝手小普請となっています。



文久2年(1862年)12月、島津久光の尽力により、一橋慶喜が将軍後見職となると、江戸に戻り、1863年4月、勘定奉行所留役当分助となりました。
更に、翌月には一橋家の用人として復帰し、一橋慶喜が上洛した際にも同行しました。

一橋慶喜からは厚く信頼され、元治元年(1864年)2月には側用人番頭を兼務し、5月に一橋家の家老並となっています。
6月には諸太夫となり、近江守に叙任されました。

天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り

と評されています。
また、渋沢栄一を一橋慶喜(徳川慶喜)に推挙しています。

文久3年(1863年)、一橋慶喜が上京すると、公武合体派諸侯の中心になりました。
しかし、平岡円四郎と用人の黒川嘉兵衛は反対派に恨まれ、水戸藩の攘夷派である江幡広光、林忠五郎らによって、6月16日、京都で暗殺されました。享年43。

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