平岡円四郎 一橋家の家老で慶喜の側近

平岡円四郎



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平岡円四郎とは

平岡円四郎(ひらおか-えんしろう)は、幕末の1822年10月7日に、旗本・岡本忠次郎の4男として生まれました。
そして、旗本・平岡文次郎の養子となり、一橋慶喜の側近として活躍しました。

幼いころから聡明だったようで、学問所の頭取りを務めるなど、江戸では、広く知られていた人物となって行きました。
また、幕臣の間で評価が高く、その才能を藤田東湖川路聖謨に認められます。
水戸の徳川慶喜が一橋家に入ったあと、1853年12月頃(32歳前後)に、一橋家の小姓として推薦されました。
攘夷は無謀であると、見抜いており、徳川慶喜には「開国するべきだ」と、強く説いたとれます。

1858年、徳川家定の将軍継嗣での争いとなると、一橋慶喜の父の徳川斉昭や、薩摩藩主の島津斉彬などが推したように、平岡円四郎と家老の中根長十郎は、一橋慶喜を将軍に擁立しようと奔走します。
しかし、井伊直弼らが推した徳川家茂が将軍となり、安政の大獄では一橋慶喜は謹慎処分になり、平岡円四郎も一橋派の危険人物とみなされ、小十人組にと左遷させられました。

安政6年(1859年)、安政の大獄では、甲府勝手小普請と、左遷されています。



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文久2年(1862年)12月、島津久光の尽力により、一橋慶喜が将軍後見職となると、江戸に戻り、1863年4月、勘定奉行所留役当分助となりました。
更に、翌月には一橋家の用人として復帰し、一橋慶喜が上洛した際にも同行しました。

一橋慶喜からは厚く信頼され、元治元年(1864年)2月には側用人番頭を兼務し、5月に一橋家の家老並となっています。
6月には諸太夫となり、近江守に叙任されました。

天下の権朝廷に在るべくして在らず幕府に在り、幕府に在るべくして在らず一橋に在り、一橋に在るべくして在らず平岡・黒川に在り

と評されています。
また、川村恵十郎(川村正平)と共に、渋沢栄一を一橋慶喜(徳川慶喜)に推挙しています。
更に、薩摩藩士で幕府から砲台設置を任された、折田要蔵のところに、渋沢栄一を派遣して、探らせるなどしました。

文久3年(1863年)、一橋慶喜が上京すると、公武合体派諸侯の中心になりました。
しかし、平岡円四郎と用人の黒川嘉兵衛は反対派に恨まれ、池田屋事件終結の祝いと 長州藩への対処を協議した帰り道に、水戸藩の攘夷派である江幡広光、林忠五郎らによって、1864年6月16日、京都で暗殺されました。享年43。



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2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」では、平岡円四郎を、俳優の堤真一さんが、演じられます。

渋沢栄一とは~日本に大きく貢献した偉人
猪飼勝三郎の解説【青天を衝け】一橋家の家臣(幕臣)
徳川慶喜(一橋慶喜)徳川家最後の征夷大将
川村恵十郎の解説【青天を衝け】一橋家の家臣(幕臣)
川路聖謨の解説 外交で負けなかった幕臣
一条美賀子(徳川美賀子)【美賀君】最後の将軍の最後の御台所である美女
黒川嘉兵衛の解説~渋沢栄一の上司として活躍した一橋家用人筆頭
徳信院の解説~徳川慶喜の養母として朝廷交渉を支援
折田要蔵の解説【青天を衝け】江戸幕府砲台造営の薩摩藩士
西郷隆盛 【西郷吉之助】の波瀾な生涯が詳しく「まるっとわかる」詳細版



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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