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ヒュースケンとは?
ヘンリー・ヒュースケンは1832年にオランダのアムステルダムで生まれた。
父は石鹸製造業で、ヒュースケンが21歳の時、家族でアメリカに渡り、アメリカ国籍を取った。
タウンゼント・ハリスが初代の日本総領事(駐日アメリカ公使官)に任命されると、当時の日本はオランダ語が外交時の公用語だったこともあり、英語・オランダ語がわかる人物を捜すと、ヒュースケンが雇われた。
1856年、ヒュースケンはハリスと共に来日して、下田の領事館にてハリスの秘書兼通訳を務め、日本語も習得。
オランダ語、英語、フランス語、日本語にも通じ、日米修好通商条約の締結に貢献。
陽気な性格で人気があったと言い、他にも、イギリスとの日英修好通商条約、プロシアとの修好通商条約締結にも協力した。
初めて富士山を見た時には「素晴らしい富士ヤマ」と叫んだとして、富士山のことを2ページにも分かり日記に綴っている。
しかし、ハリスと共に将軍・徳川家定に謁見したあとからは、日本が先進国からの素晴らしい「文明」が入ると賛美するも「この文明は本当にお前(日本)のための文明なのか」とも、自分に問う文面も見られる。
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ヒュースケン殺害事件
大老・井伊直弼の勅許を得ない条約締結に対して反対する攘夷派は、度々外国人を襲撃する事件を起こしており、そんな中、とても残念な事件が起こってしまった。
1861年1月14日(万延元年12月4日)、ヒュースケンは江戸城の周りを馬でまわって、午後6時頃にプロイセン王国の使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)に到着。
プロシア使節らと夕食を摂ったあと、夜8時半頃まで雑談に興じた後、幕府の3名の騎馬役人、従僕ら4人、馬丁2名を警護につてけ、善福寺のアメリカ大使館への帰路に着いた。
しかし、その途中の夜21時頃、芝薪河岸にある中の橋付近で攘夷派「浪士組」所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助ら8名に襲撃された。
腸を切断するほどの深手を負い、約200m先で落馬したヒュースケンは、アメリカ公使館に運ばれ、ハリスはプロイセンの医師と使節団数名を呼び寄せた。
また、既に駆けつけていた日本人医師らと、懸命な手当をおこなったが、翌16日の零時半に息を引き取った。失血死。28歳没。
葬儀は更なる襲撃が予測される中、18日に行われ、新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守・高井丹波守・滝川播磨守ら5人の外国奉行と各国外交官も列席。
ヒュースケンの遺骸はプロイセンが用意した棺に納められるとアメリカ国旗で包まれ、プロイセンの軍楽隊、各国公使、館員、プロイセン水兵、オランダ水兵達らの隊列によって、善福寺から光林寺へ運ばれた。
善福寺は土葬が禁じられていたため、キリスト教徒のヒュースケンの亡骸は、土葬が可能な光林寺(東京都港区南麻布四丁目)に埋葬されたのであった。現在、墓碑がある。
葬儀の翌日、イギリス公使館のある高輪東禅寺にハリス(米国総領事)、オールコック(英国公使)、ベルクール(フランス総領事)、オイレンブルグ(プロシア全権大使) 、デ・ウィット(オランダ総領事)らが集まり、抗議の意味も含めて拠点を江戸から横浜に移すと、老中・安藤信正や、外国奉行・堀織部正を責め、その結果、堀織部正は切腹している。
ヒュースケンは各国公使の人望も厚かったため大問題となったがハリスが仲裁。
徳川幕府がヒュースケンの母ジョアンネに対して、1万ドルの賠償金を支払うことで決着した。
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なお、ヒュースケンの英語名は、Henry Conrad Joannes Heusken
オランダ語名はヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・フースケン。
このヒュースケンを襲ったのは、清河八郎が率いる「虎の尾会」のメンバーであり、幕府から清河八郎は目をつけられる事となり、このあと、京都警護と称して浪士隊を結成して京へ向かうのであった。
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コメント
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ヒュースケンさんがアメリカに渡った時、ご家族はオランダに残ってたそうですよ。と言ってもお父様は既に他界されており、ご兄弟もおられなかったそうなのでご家族はお母様だけだったそうですが。
あと、堀織部正さんが亡くなられたのはヒュースケンさんが暗殺される少し前だそうです。ヒュースケンさんが連日夜遅くまで外出されていることに対して「危険だから控えるように」と忠告の手紙を送ったそうですが、それに対してヒュースケンさんは「私は日本の浪人を危険とは考えていない。もし襲い掛かってきたならば撃退してみせる。」と、挑発するような返書を堀さんに送りつけたそうです。(送る前にヒュースケンさんのご友人にこの返書書を見せたそうですが、ご友人はドン引きして「この手紙は送らない方が良い。」と言われたとか…)元々外国人のことを良く思っていなかった堀さんはそれに激怒し、会議の席で「異人は危険です。特にあのヒュースケンという男は即刻排除すべきです。」のような過激な発言をしてしまい、それを安藤さんにキツく咎められ失意のあまりご自宅でご家族の目の前で切腹されたとか…一時はヒュースケン暗殺事件の下手人は堀さんの臣下の者では?とも言われていたそうです。
これらのことは「ヒュースケン日本日記」(青木枝朗氏訳)、「開国の使者 ハリスとヒュースケン」(宮永孝氏著)等に記載されていました。
長文駄文、失礼致しました。