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タウンゼント・ハリスとは
タウンゼント・ハリス(Townsend.Harris)は、1804年10月3日に、ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒルにて生まれた。
貧しい家であったため中学校を卒業すると、13歳から父や兄の陶磁器輸入業を手伝い、休みの日には図書館などでフランス語・イタリア語・スペイン語を独学で勉強した。
それが長じて教育者となったたようで、1846年にはニューヨーク市の教員局長に就任。
1847年には、経済的に困難な移民や労働者階級の子に無償で高等教育を行う、フリーアカデミーを創設した。
しかし、貧困層への無料教育は風当たりが強く、1848年に辞職している。
そして、1849年にはサンフランシスコで貨物船ほ購入し貿易業を開始。
清、ニュージーランド、インド、マニラなどを行き来する間に、上海などを拠点とした。
1853年に、ペリー提督が日本へ向かう前、上海で同行を求めたが、軍人ではなかったため、この時は断られている。
その後、アメリカ政府に縁故を頼り働きかけると、中国・寧波の領事に任命されたが、アメリカに帰国すると政界人に働きかけて、日米和親条約の11条に基づく日本駐在を望んだ。
1855年、フランクリン・ピアース大統領から、初代駐日領事に任命されると、通商条約締結のための全権委任を与えられた。
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ハリスは通訳兼書記官としてオランダ出身のヘンリー・ヒュースケンを雇うと、1856年にアメリカを発ち、ヨーロッパからインド経由で香港に入り、1856年7月21日に伊豆の下田港へ入港した。
日本到着直後は、下田奉行・井上清直から入港を拒否されるなどしたが、折衝の末に正式許可を受け、下田・玉泉寺にアメリカ領事館を構えた。
大統領の親書を将軍に届ける為、ハリスは老中・堀田正睦らに江戸行きを伝えたが、水戸藩主・徳川斉昭ら攘夷派が反対し保留。
そのため、下田にて和親条約改訂の交渉が行われ、1857年5月に下田協定が調印された。
ハリスは暇さえあれば下田周辺を散策していたと言い、日本人は、喜望峰以東の最も優れた民族であると称し、伊豆・下田の町も清潔で日当たりがよく気持ちが良い。世界のいかなる土地においても、下田より良い所は無いだろうとまで、日記に綴るなど、日本に対して非常に好意的だったと伝わる。
1857年7月アメリカ軍艦が下田に入ると、徳川幕府はアメリカ船が江戸湾に回航するの恐れて、ようやく、ハリスとヒュースケンの江戸城登城を許可し、将軍・徳川家定に謁見し、親書を読み上げた。
将軍からは「遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい」という言葉を貰っている。
1858年、大老・井伊直弼が勅許なしで日米修好通商条約を締結すると、ハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して、1859年6月8日、江戸・元麻布善福寺にアメリカ公使館を設置した。
持病の胃病で吐血するなどの体調不良に悩まされると1862年に辞任の意向を示す。徳川幕府の老中・安藤信正など留任を望んだが、アメリカ政府の許可を得て1862年4月に、5年9か月に渡る日本滞在を終えてアメリカに帰国。
ロバート・プルインが後任として就任した。
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帰国後は、公務には付かず、政府からの功労金を得て動物愛護などの活動を行っている。
1876年にフロリダへ移住すると、1878年2月25日に74歳で死去した。
生涯独身を貫いた人生であった。
なお、ハリスは日本滞在中に「混浴」の事を「何事にも間違いのない日本国民が、どうしてこのように品の悪いことをするのか、判断に苦しむ」と述べている。
江戸の街には銭湯が600軒あったと言うが、古来より日本の風呂は混浴が基本であり、明治維新となると欧米化を図った新政府は、混浴を禁止するなどの法律を定める事となった。
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