安藤信正  優れた手腕を発揮し公武合体を進めた幕府老中


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 安藤信正は、1819年11月25日、磐城平藩の第4代藩主・安藤信由の嫡男として。磐城平藩の江戸藩邸で生まれた。
 母は大河内松平信明の娘。
 幼名は欽之進、後に欽之介。元服時の初名は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行(のぶゆき)、さらに安藤信正へと改名した。

 1835年3月15日、将軍・徳川家斉に御目見すると、12月16日、従五位下伊勢守に叙任された。後に長門守、対馬守と改めている。

 1847年8月2日、父・安藤信由が死去し家督を継いだ。
 1848年1月23日、幕府の奏者番に就任。

 1858年8月2日、寺社奉行加役を経て、大老・井伊直弼の下で若年寄と順調に昇進した。

 正室は松平宗発の娘で、1859年10月16日には嫡男・安藤信民が生まれている。

 1860年、老中となり外国御用取扱として同じ老中の脇坂安宅と共に外交にあたったが、その直後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される。

 この時、安藤信正(あんどう のぶまさ)はすぐに彦根藩邸に「掃部守様ご負傷のお見舞い」と称して赴き、首のない遺体と対面。
 遺体に対して怪我の様子を尋ね、将軍の上巳の節句の中止の旨と、長々とした見舞いの言葉を述べて帰った。
 このように、井伊直弼は「負傷」しており、浪士に襲われたが死んでいないと言う芝居を打って、徳川幕府の体面を保ち、彦根藩と水戸藩との対決を回避したのだ。

 事態を収拾すると、井伊直弼から罷免されていた関宿藩主・久世広周を老中に復帰させて、以後2人が中心になって、徳川幕府の政を事実上行う最高権力者となった(久世・安藤政権)。

 安藤信正は井伊直弼の強硬路線を否定し、安政の大獄で弾圧を受けた一橋慶喜、松平春嶽山内容堂らの謹慎を解き、穏健政策を取ることで朝幕関係を深めていこうとする「公武合体」を推進。
 また、貿易統制を行い、全国市場を統制下に置くなどして財政難の立て直しも図るなど優れた手腕を発揮した。

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 1862年、井伊直弼の跡を継いで彦根藩主となった井伊直憲に、亡父の責任を取らせる形で10万石を減封させ、孝明天皇の妹・和宮を第14代将軍・徳川家茂へ降嫁させるよう奔走した。
 長州藩士・長井雅楽の航海遠略策を承認したのも公武合体の一環である。

 また、この頃にはアメリカ公使館通訳ヘンリー・ヒュースケンが殺害される事件など問題が起こったが、当時はアメリカは南北戦争の真っ最中であったこともあり、無難に処理して、金貨流出問題や物価高騰問題などに対しても対応策を講じて、幕末の政局安定化に努めた。
 西欧に関する知識もあったようで、特に外交面では外国奉行・堀織部正ら有能な者を起用し、自ら処理したことから外国公使団からは信頼を得ていたと言う。

 しかし、1862年1月15日、和宮降嫁問題によって恨みを抱いた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受けた(坂下門外の変)。

 江戸城西ノ丸下(現在の二重橋前)の老中官舎から礼装して駕籠に乗り登城する行列は警護も45名いたが、人馬の中から頭巾を被った武士・小薬平次郎が訴状を捧げようと走り出て、短銃で安藤信正の駕籠を撃った。
 弾丸は外れたがその音を合図に水戸浪士・平山兵介ら6名が襲撃。
 平山兵介が駕籠の背面から心臓を狙って刀を突き差すと、安藤信正は抜刀して、足袋だけのはだしのまま門内に逃げ込んだと言う。
 刺客は全員その場で切られた。

 大番所にて遭難の様子を若年寄と目付に届けさせて帰邸。
 背中に2ヶ所、頬に1ヶ所の傷を負ったが、なんとか一命はとりとめ、2ヶ月後のイギリスの公使ラザフォード・オールコックと会見では、包帯姿で挑んでいる。
 このとき、オールコックは負傷しながらも、会見に臨んだ阿部信正の姿に感嘆したと伝わる。

 その一方で「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けない」と非難の声も上がり、女性問題など事実無根の中傷が出回り、アメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などを周囲から問われて文久の改革は失敗。
 薩摩藩の島津久光などが復帰に反対し、1862年4月11日に老中を罷免され、溜間詰格へ降格となった。
 のちに、久世広周も罷免され、長井雅楽も高杉晋作らによって藩論が攘夷論に転じて失脚している。

 その後、安藤信正は隠居・謹慎を命じられ、所領のうち2万石を減封され、3万石となった。

 家督は長男・阿部信民が継いだが、翌1863年8月10日に死去したため、甥の阿部信勇を次の藩主に選んでいる。

 慶応4年(1868年)に明治新政府となると、若い阿部信勇に代わって本領での藩政を指揮。

 新政府軍に対抗する為、奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦ったが敗れ、磐城平城は落城した。

 阿部信正も降伏して謹慎となったが、明治2年(1869年)9月10日に永蟄居の処分が解かれている。

 しかし、政治の場に戻る事はなく、明治4年(1871年)10月8日に死去。享年52(満51歳没)。

 法名は、謙徳院殿秀譽松巌鶴翁大居士。
 墓所は、福島県いわき市平古鍛冶町の川嶋山楢騎士院良善寺。

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