川路聖謨の解説 外交で負けなかった幕臣

川路聖謨



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川路聖謨(かわじり-としあきら)は、江戸時代後期の旗本で、豊後・日田代官所に勤務した属吏である内藤歳由の子として1801年に生まれました。
母は、日田代官所勤務である高橋誠種の娘。
弟には、のち下田奉行に就任する井上清直がいます。
子供の頃は、極度の貧困でしたが、両親の厳格な教育を受けて育ったようです。

父・内藤吉兵衛歳由は、身分の低い役人でしたが、1808年に江戸に出ると御家人の株を手に入れて、幕府徒歩組となりました。
この頃、江戸時代の中期以降、藩士や御家人の身分は「売り」に出されることもあり、その株(権利)を購入することで、士分になることもできました。
これは、生活に困窮した武家が、表向きは養子縁組みする形で、その家格を農民や町人などに売り渡すことを、御家人の株の売買と言います。
そのような形で、川路聖謨の父は幕府の御家人となり、川路聖謨自身も、12歳の時、1812年に小普請組の川路光房(川路三佐衛門光房)の養子となりました。

ちなみに、幕末に活躍する勝海舟の家も、もとは、御家人・男谷家の株を買ったことから、旗本(幕臣)になったと言う事です。



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元服した川路聖謨(川路弥吉)は、小普請組と言ういう無役で小身の旗本となりました。
文化14年(1817年)、勘定奉行所の下級吏員資格試験を受験し、1818年、勘定奉行所支配勘定出役となっています。
その後、御勘定に昇進して、家格が御家人から旗本格となっています。
そして、寺社奉行吟味物調役になると、出石藩で発生した仙石騒動を裁き、この功績にて勘定吟味役に昇進しています。
そのあとは、佐渡奉行を経て、老中・水野忠邦のもと、小普請奉行、普請奉行として幕府改革に尽力しました。
江川英龍や渡辺崋山らと、西洋の最新技術にも興味を示していましたが、水野忠邦が天保の改革の失敗で失脚すると、川路聖謨は、奈良奉行にと飛ばされています。
ただし、奈良でも善政を敷き、ハゲ山になっていた多聞山城跡に植樹したり、佐保川では「川路桜」と呼ばれる桜の植樹を進めています。
更には、博打を取り締まって、貧困の農民・商人を救済しました。

大坂東町奉行のあと、嘉永5年(1852年)には、公事方勘定奉行に就任し500石となっています。
嘉永6年(1853年)、老中・阿部正弘より、海岸防禦御用掛に任じられ、開国を唱えました。



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長崎にロシア使節エフィム・プチャーチンが来航すると、大目付格槍奉行・筒井政憲、勘定吟味役・村垣範正、下田奉行・伊沢政義、儒者者・古賀謹一郎らと共に交渉を担当しました。
そして、安政元年(1854年)、下田にて日露和親条約が調印されますが、この時、日本側の全権は、筒井政憲(筒井肥前守政憲)と、川路聖謨(川路左衛門尉聖謨)の2人でした。
千島列島の択捉島など北方領土4島は、日本の領土であると、ロシアから譲歩を獲得した瞬間でした。

安政5年(1858年)、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリス日米修好通商条約の調印を求めて来ると、老中の堀田正睦と上洛して、孝明天皇から条約調印の勅許を得ようとしました。
しかし、却下されて江戸へ戻っています。
※条約は弟・井上清直と岩瀬忠震が、朝廷の許可がないままタウンゼント・ハリスと調印。

上司の老中・阿部正弘が亡くなり、井伊直弼が大老に就任すると、一橋派が排除されました。
奈良代官のときに、勤王の宮家や公家との交流があった川路聖謨も、西丸留守居役に左遷され、更には隠居差控を命じられています。



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文久3年(1863年)、勘定奉行格外国奉行となりますが、これは形ばかりであったため、病気を理由にして辞職しています。
ただし、引退したあとは、実際に中風での半身不随になっていたようです。

慶応4年(1868年)、新政府軍が江戸城に迫るなか、不自由な体のため形だけ切腹の上、ピストルで喉を撃ち自殺しました。享年68。
※日本でのピストル自殺第1号とされています。

明治天皇に対しては讃えていましたが、薩摩藩の謀略性は憎んでいたと言います。
明治維新後、従四位を贈られています。



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正室:桑原政盈の娘・エツ

継室:市川常春の娘・やす
 長男:彰常 – 父に先立って死去。
 長女:くに – 幕臣・高山貞通室
 次女:のぶ – 幕臣・貴志忠孝室

継々室:高橋兵左衛門の娘・かね
継々々室:大越喬久の娘・さと

側室
 次男:原田種倫 – 幕臣・原田新一郎の養子
側室
 三男:新吉郎 – 画家、東京美術学校卒
 四男:原田又吉郎 – 異母兄・原田種倫の養子



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2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では、川路聖謨を、俳優の平田満さんが、演じられます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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