阿部正弘 福山藩主として江戸幕府の老中首座で人材登用の名君


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阿部正弘(あべまさひろ)は、1819年10月16日、福山藩第5代藩主・阿部正精の五男として江戸の西の丸屋敷で生まれた。幼名は正一・剛蔵・主計。称は主計頭・伊勢守。字は叔道・叔卿、号は裕軒・学聚軒。
母は側室・高野貝美子。

10歳の頃から柴山敬蔵や門田朴斎らに儒学を学び、馬術・槍術も修練して心身を鍛えたと言う。

1826年6月20日、病のため老中職を辞任していた父・阿部正精が死去(享年53)して兄・阿部正寧(18歳)が家督を継ぐと、阿部正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った。
兄・阿部正寧は、1831年に奏者番に任じられたが元々病弱で藩政にも消極的であり、病気を理由に辞職し1836年12月25日には隠居を申し出た。
こうして、阿部正弘(18歳)に家督が巡ってくる事となり、第7代の福山藩主となった。

1837年、10万石の藩主となった阿部正弘は、初めて福山の国許入りを果たしたが、これが最初で最後の福山城入りとなった。

1838年9月1日、幕府の奏者番に就任。
1840年5月19日、寺社奉行見習となると11月には寺社奉行に任じられ、日光東照宮の修繕や、感応寺の破却などを行なった。
大奥と僧侶が将軍・徳川家斉の時代に乱交を極めていた事件が、寺社奉行となった阿部正弘の時に露見すると、阿部正弘は徳川家斉の非を表面化させることを恐れ、僧侶・日啓や日尚らを処断した。
しかし、大奥の処分は一部だけに限定している。
この裁断が第12代将軍・徳川家慶の目に掛かり、1843年閏9月11日、阿部正弘は25歳で老中となり、辰の口(千代田区大手町)の屋敷へ移った。

正室は福井藩の第13代藩主・松平治好の娘・謹子で、のち継室として第16代福井藩主・松平慶永の養女(松平直春の娘)を迎えている。

老中首座と安政の改革

1844年5月、江戸城の本丸が焼失し、さらに外国問題の紛糾などから水野忠邦が老中首座に復帰。
しかし、阿部正弘は一度罷免された水野忠邦の復帰に反対し、徳川家慶に対して諫言したと言う。

阿部正弘は、水野忠邦が行った天保改革時代に不正などをしたとして江戸南町奉行・鳥居耀蔵や後藤三右衛門、渋川敬直らを処分し、後任に南町奉行に元北町奉行の遠山景元を任命。
さらに、1845年9月、老中首座・水野忠邦も、天保の改革の際の不正を理由に罷免させた。
阿部正弘は若かったが、当時、老中が次々と入れ替わった事で、一番就任期間が長くなり後任の老中首座となり、こうして、徳川幕府政務の中心的な人物となった。

1852年には、江戸城西の丸造営を指揮した功により1万石が加増されている。
しかし、度重なる外国船の来航や、中国でのアヘン戦争勃発など、対外的脅威が深刻化しその対応に追われる事となったが、機敏に反応して早期処理する能力には欠けていたと言える。

諸外国への対応としては、1845年から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置し、外交・国防問題に当たらせた。
また、薩摩藩・島津斉彬、水戸藩・徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、筒井政憲(大目付)、戸田氏栄、松平近直、川路聖謨(勘定奉行)、井上清直(下田奉行)、水野忠徳(勘定奉行)、江川英龍(江川太郎左衛門)、ジョン万次郎、高島秋帆、堀利煕(目付)、永井尚宗(目付)、大久保忠寛(目付)、岩瀬忠震(目付)など大胆な人材登用を行っている。

人材育成の必要性も認識しており、1852年から、加増された1万石の資金を使い、1853年に、備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を廃止して「誠之館」を創設し、藩士だけでなく身分に関係なく教育を行った。
しかし、福山藩の藩政を顧みることはほとんどなく、藩財政は苦しい状況だったと言う。

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1846年、アメリカ東インド艦隊の司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀(神奈川県)へ来航して通商を求めた。
しかし、安倍正弘は鎖国を理由に拒絶。 
松平慶永や島津斉彬らの意見により、徳川斉昭を海防掛参与に任命すると、実力のある外様大名による幕政介入の原因となり、結果的に徳川幕府の権威を弱め、雄藩の発言力が強まり、朝廷権威が上がる事となった。

その7年後の1853年6月には、マシュー・ペリー提督率いる東インド艦隊がアメリカ大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航。(黒船来航)
国書を受け取るだけなら良いだろうと判断して、アメリカ大統領の国書を浦賀奉行に受け取るように指示した。
同年7月には、ロシアのプチャーチン率いる艦隊も長崎に来航して通商を求めた。

国家の一大事として、阿部正弘は親藩・譜代・外様を問わずに諸大名をはじめ、旗本さらには庶民にも意見を求めた。
直後に第12代将軍・徳川家慶が病死し、徳川家定が第13代将軍になると、徳川家定が病弱だったこともあり、阿部正弘は幕政の総責任者となり、安政の改革を断行する。

1854年1月にペリーが再来航すると3月3日に日米和親条約を締結し、約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げた。
しかし、条約締結に反対した徳川斉昭は、海防掛参与を辞任し、更に幕政は混乱する。

これを機に旗本・勝海舟の意見を取り入れて諸藩に対して大船建造を解禁。
徳川幕府としても日本の船大工に西洋の造船技術を学ばせ、鳳凰丸の建造を開始し、オランダに蒸気船2隻を発注した。
また、諸大名から幕府への上納金を軽減し、逆に資金を貸し付けて海防の強化を命じる。
品川台場も構築されると、外国船と日本船の識別の為、1854年7月9日「日の丸」を日本国旗として制定した。

阿部正弘は人の話を良く聞いたが、自分の意見を述べることがほとんど無かったが、これは、自分の意見を述べてもし失言だったら失策となるのを恐れたとされるが、基本的に自分で主導せず、適材適所で有能な部下に仕事を任せると言う方針で、下級武士の存在感向上ともなった。
なお、肥満体で長時間の正座が苦痛だったと言うが、相手の話を聞くときは長くなっても常に正座をしていたと言う。

1855年8月4日、攘夷派の徳川斉昭の圧力により、開国派の老中・松平乗全、松平忠優を罷免。
これが、開国派・井伊直弼らの怒りを買い、孤立を恐れた攘夷鎖国派の阿部正弘は批判をかわすため、10月9日、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲り、両派の融和を図った。
しかし、実権は引き続き握り改革は続行されたが、この頃から第14代の将軍継嗣問題(徳川家定の後継者)も表面化し、阿部正弘は人物・識見等から一橋派として一橋慶喜を推した。

また、阿部正弘は江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを海防掛(海岸防禦御用掛)へ登用し、幕閣に対する諮問機関としての役割を持たせていた。
更に人材の育成や、国家としての軍事及び外交研究機関として講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設。

後に講武所は日本陸軍、長崎海軍伝習所は日本海軍、洋学所は東京大学の前身となっている。

1856年7月には、アメリカからハリス公使が来日して下田に入港し、大老・井伊直弼が朝廷の勅許無しでの通商条約締結。

1857年6月17日、激務が祟り、老中在任のまま江戸で急死。享年39。

200年の鎖国を破り、欧米列強と台頭に渡り合おうと開国への道を歩んだ事は大きく評価して良いだろう。

家督は甥(兄・阿部正寧の子)で、養子の阿部正教が継いだ。

島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく
林大学頭とは~黒船来航のペリーと対等に交渉し日本の立場を守った儒学者

 

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