林大学頭とは~黒船来航のペリーと対等に交渉し日本の立場を守った儒学者「林復斎」




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ペリー来航で日本は開国した。皆が持つ大体のイメージである。しかしあれは本当に開国だったのか?
本当に日本はアメリカの武力に屈したのか?
それは彼が教えてくれるかもしれない。


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その名は、林復斎(はやし-ふくさい)。
林大学頭とも呼ばれる。

代々儒学者の名門、林家に彼は生まれた。
秀才としてエリートコースを歩んだが、ある日彼とそして日本に転機が訪れる。
1853年、ペリー来航である。

ペリーがそれまでにない大艦隊、それも砲の付いた蒸気船でやってきたものだから日本中は大騒ぎになった。
そんな中、エリートとはいえ学者にすぎなかった林が歴史に登場する時が来た。
翌年のペリー再航の際、老中・阿部正弘より直接の交渉役に選ばれたのである。

実際交渉が始まると、ペリーはいかにもアメリカンという恫喝的な態度で相手を従わせようとしたようだ。
彼は人命の尊重が第一と言いながら、祝砲と称して十八発の空砲を放ち武力を示したが、林は動じることもなく淡々と会議を続けた。

前回の来航で米側から示された薪水食料などの給与、漂流民の救助は国の法に照らして問題がないので承諾。
しかし、三つ目の交易については、国法で禁じられているからときっぱりと拒否した。
交渉はなかなか進まず何度も行われたが、交易についてペリーは食い下がった。
しかし、林が「あなたは人命が第一と申された。交易と人命は直接関係がない。」というと、ペリーは反論できず交易についてを諦めた。

するとペリーは戦術を変え、薪水給与のため長崎以外に港を開港するよう求めた。
だが、林は一度目の来航時に他の港の開港要求がなかったことを理由に拒否。
ペリーは林のペースに持って行かれてしまった。
結局、下田、函館が『開港』されたが、これらは来航したアメリカ船に薪水等を与えるための港であり、林の交渉術で外国人の港からの行動範囲も七里以内に制限された。
ペリーたちアメリカ側が求めた『交易』とはほど遠い開国だったある。

わたしたちは漠然と「日本がペリーの武力に押されて開国した」などというイメージをどこかで植えつけられているが、彼、林大学頭は武力に動じず、アメリカ特有の恫喝外交にも屈せず、アメリカ側の『交易』という目論見をみごと崩し去った。
当時のアメリカは、西海岸側はまだ発展しておらず、船も東側で造りパナマ運河から西海岸へ送るといった風だった。
※運営側権限で対応
日本とはほど遠くても国力も未熟なアメリカが、太平洋を渡って日本に上陸してまで戦争する能力がなかったことも林は知っていたのだろう。
彼は、幕末日本は、弱腰などではなかったのである。

(寄稿)ぬもくね

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コメント

    • まきむく
    • 2021年 4月 10日

    ペリーは著名な軍人の家系、林大学頭は文人の家系でそもそも修羅場の経験値が違う。
    いくら書物の知識を溜め込んだところで、現実に相手側の殺意さえ感じられる状況で正常な思考判断が出来るとは思えず、せいぜい拒否程度が限度だろう。
    大学頭は孫子の「彼を知り己を知らば百戦して危うからず」は知っていても、残念ながら肝心の実践能力の欠乏が現実で、それゆえ日米不平等条約は必然だった。

    • エライア
    • 2019年 12月 10日

    ペリー来航当時、パナマ運河は存在すらしてませんよ。
    そもそもペリーは東海岸からインド洋方面から日本に来てます。


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