ペリー提督とは~マシュー・ペリー~アメリカ海軍大佐と日本各地のペリー銅像も




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マシュー・ペリー提督とは

マシュー・ペリー提督は、1794年4月10日にロードアイランド州ニューポートで生まれたアメリカ海軍の軍人で、鎖国していた日本に来航し、開国を要求したことで知られ、当時、日本の文書には「ペルリ」と記載された。
正式な名はマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew-Calbraith-Perry)で、アメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと、妻セーラの間に3男として生まれた。
兄のオリバー・ハザード・ペリーは、英雄として知られる。

ペルリ提督の像

1809年にアメリカ海軍に入ると、蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めた他、海軍士官教育にあたり「蒸気船海軍の父」と称された他、海軍教育の先駆者とされている。

1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出。
ペリーはシーボルトの著書「日本」をはじめ、40冊ほどの日本を紹介した本を読み、どうしたら開港を成功させられるか研究をしていたようだ。


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しかし、最初、アメリカ大統領フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の代将であるジョン・オーリックに任務を与えた。
1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦としてアジアに向けて出発したが、サスケハナの艦長インマン海軍大佐とトラブルを起こしたことで、広東に到着すると病と言う事で解任され、1852年2月、代わりにマシュー・ペリーが東インド艦隊の代将に就任した。

この代将(だいしょう、英語名は Commodore)と言う階級は、かつてアメリカ海軍大佐の上に存在した階級であったが、何か特別な任務を与えられるときに一時的に任命されるものであり、階級としてはあくまで大佐だった。
ただし、当時、代将の地位は実質的に海軍軍人の最高位であり、提督と言う言葉を使っても支障は無い為、このページでも一般的に知られるペリー提督として表記している。

そして、ミラード・フィルモア大統領の親書を携えて、ペリーは日本に開国を要求するべく、バージニア州ハンプトン・ローズから蒸気フリゲート艦ミシシッピ号に乗船し、1852年11月24日単艦にて出航。
大西洋を渡って、マデイラ諸島・ケープタウン・モーリシャス・セイロン・シンガポール・マカオ・香港へと航海し1853年5月4日には上海に到着。
サスケハナなど東インド艦隊と合流すると、5月17日、サスケハナを旗艦として、まずは琉球に向かった。

ペリー艦隊

マカオでは漢文通訳のウィリアムズを雇っている。
この時、大統領はすでに民主党のピアースに代わり、ドッピン海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。

琉球には5月26日に到着し、那覇沖に停泊すると、ペリーは首里城への訪問を打診。しかし、琉球王国が拒否した為、武装した海兵隊を率いて上陸し、行進しながら首里城へと向かった。
琉球王国は兵と武器の持ち込みは拒否したが、会見には応じるとして、武将解除したペリーと士官らが入城。
大統領親書を手渡すと酒と料理をもてなされ、ペリーは感謝して琉球の高官を旗艦サスケハナに招待し、フランス料理を振舞ったと言う。



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ペリーは艦隊の一部を那覇に残して、4隻の軍艦にて小笠原諸島を探検。
6月23日に一度琉球へ帰還すると、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に日本へ向けて出航した。
そして、4隻のペリー艦隊は1853年6月3日に浦賀に入港したのだ。これが黒船来航である。

なお、サスケハナには、サム・パッチと呼ばれる日本人・仙太郎が乗船していた。
仙太郎(サム・パッチ)は、漂流民で1850年にアメリカ商船に助けられ、アメリカに滞在したあと、ペリーと共に同行していたのだ。
浦賀奉行所与力・中島三郎助は「外国の服は着ているが頭を月代にした日本人風体の男がいる」と記録している。

当初、ペリーとの応対は浦賀奉行があたり、親書は長崎へ回してほしいなどと言ったようだが、ペリーは断ると浦賀奉行は江戸で指示を仰ぐから待ってほしいと申し出たと言う。
老中・阿部正弘は受け取るだけならと言う判断で、6月9日、徳川幕府側が指定した久里浜に、ペリーは護衛を引き連れ上陸した。



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そして、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に大統領の親書を手渡している。
ここでは具体的な協議は行なわれず、開国の要求をしたのみで、江戸湾を何日か測量した後、幕府から返答にはあと1年掛かるとの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へと戻った。

なお、幕府へ「電信機」と「模型機関車」を献上。
模型機関車は実際に蒸気を吐いて動くもので、実際に走らせて人々を驚かせた。

マシュー・ペリー

また、電信機は約1.6kmの電線をひいて最初の公開実験では「YEDO」(江戸)と「YOKOHAMA」(横浜)という文字をモールスで送信。一瞬にして言いたいことが伝わる機械に、日本人は大変驚いたと言う。
このエンボッシングモールス電信機は国の重要文化財として、逓信総合博物館で展示されている。

1年後の約束ではあったが、大平天国の乱が起こり、アメリカでの極東事情も変化し、ペリー提督は約半年後となる1854年1月16日に、旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて、今度は横浜沖へ2度目の来航をした。

ペリー提督上陸

最終的には合計9隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受ける。

そして、早期の条約締結を求めた為、幕府は対応に苦慮し、約1か月にわたる協議の末、老中・阿部正弘はアメリカの開国要求を受け入れる事となった。

3月3日、ペリー提督は約500名の士官・船員とともに横浜村(神奈川)に上陸し、日本側から歓待を受け、その後交渉が開始されると全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなった。
日本側の実務担当者は、大学頭・林復斎であった。なお、佐久間象山とも面会している。

kurobune

これにより、3代将軍・徳川家光から200年以上続いてきた鎖国が解かれて、日本は下田と箱館(函館)を開港して開国となった。
艦隊が下田港に入った際には、吉田松陰と金子重之輔の2人が、アメリカに渡りたいと密航を申し出たが、ペリー提督は日本と大切な条約を結んだばかりだった事もあり拒否している。
その後、4月下旬にペリーは視察のため箱館港に入港して松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めたが、権限がないとして拒絶され、下田港(静岡県下田市)に戻ると了仙寺を交渉の場とした。

了仙寺

5月22日に、和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結。
6月1日に下田を離れると那覇に寄港して、7月11日、琉球王国とも琉米修好条約を締結し、報告の為、香港から陸路インド経由でイギリスに向かい、アメリカへ帰国した。

しかし、長年、海上での激務がたたったのか、4年後の1858年3月4日に、ニューヨークで死去している。63歳だった。



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なお、1857年5月26日には、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが下田港に来航し、下田奉行の井上信濃守清直、中村出羽守時万の間で日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約(下田条約)が締結されている。
そして、翌年1858年6月19日には、ハリスの要求に大老・井伊直弼が応じて、日米修好通商条約と言う不平等条約が結ばれる事となり、幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五か国条約)。

日本各地にあるペリーの銅像

日本全国にはペリー提督関連の記念碑や銅像などがありますのでご紹介してみます。
まずは、ペリー提督来航の地である久里浜からです。

ペリー上陸記念碑

ペリー上陸を記念して建立されたのは、ペリー上陸記念碑です。

ペリー上陸記念碑

1853年、アメリカの黒船が浦賀に来航しました。
そして、ペリー提督がアメリカ大統領からの国書を日本に渡したいと言うので、江戸幕府は長崎に向かうように伝えました。
しかし、ペリー提督は納得せず、直接、江戸に向かうと言いだして東京湾の測量を開始したため幕府側が折れます。
最初、幕府は浦賀で国書を受け取ろうと考えましたが、江戸湾の警備を担当していた川越藩、彦根藩、会津藩、忍藩が「外国船が来ても攻撃もしなくて良いのであれば、なんのために警備させられていたのか?」と抗議します。
また、国書が渡される際にも諸藩は海上警備を行って、大事にて働いたと言う事を示せるために、裏側よりも湾が広くて展開しやすい隣の久里浜が選ばれました。
ペリー提督は約300名の海兵と共に久里浜の砂浜へと上陸した次第です。

ペリー提督上陸

ペリー提督は仮設の応接所に入ると、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に、アメリカ大統領からの国書などを手渡した次第です。
その後、ペリー来航時に17歳の少尉候補生としてプリマス号に乗船していた、レスター・ビアズリー少将が退役後に来日すると、久里浜に特にペリー提督を記念する物が存在していないのに驚きます。
そのため、日本のアメリカ好遊会などが中心になって、1900年(明治33年)10月に建立されました。
ただし、太平洋戦争が激化すると、1945年(昭和20年)2月8日に破壊されたようです。
終戦後、ニミッツ提督やハルゼー提督らは、倒された上陸記念碑を視察。
早くも1945年(昭和20年)11月に、ペリー上陸記念碑は再建されました。

ペリー艦隊来航記念碑

1854年1月、久里浜上陸から1年後、ペリー提督は9艦を率いて再来日し、国書の返事を幕府に問いただしました。
そして、3月3日、ついに日米和親条約(神奈川条約)が締結され、即時に下田が開港しました。
その後、条約の詳細部分を話し合うため、7隻のアメリカ艦隊が下田湾に入るとペリー提督は上陸。

ペリー艦隊来航記念碑

浦賀奉行所の支配組頭である黒川嘉兵衛らが下田・了仙寺にて饗応しました。

ペルリ提督の像

冒頭にも掲載させて頂きましたが、下記は、東京都心にある「ペルリ提督の像」です。
なんでも、日本開国100年記念祭(1948年)のとき、東京都がアメリカ合衆国のニューポート市へ石灯籠1基を贈ると、その答礼としてペルリ提督の像が届けられたそうです。

ペルリ提督の像

東京・芝にある増上寺の道路向かい側緑地(芝公園10号地)にあり、公園の植え込みでひっそりと東京の街を見つめています。
場所は、当方のオリジナルGoogleマップ(江戸編)にてピンポイントで示しています。

ペリー提督来航記念碑

ペリー提督来航記念碑は、黒船来航150周年を記念して、2004年5月17日に披露された函館にある銅像です。

ペリー提督来航記念碑

函館が開港した際に設置されたアメリカ領事館に近い、旧市立函館病院跡に建立されました。
ペリー提督来航記念碑がある場所は、当方オリジナルの道南・函館歴史探訪Googleマップにて明記させて頂いております。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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