新島襄 キリスト教教育に捧げた生涯


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新島襄は、群馬の安中藩士・新島民治と、妻・新島とみの長男として、江戸・神田一ツ橋通・小川町の安中藩邸内で、1843年1月14日に生まれた。
都営地下鉄三田線神保町駅のほど近くに生誕地をしめす石碑がある。
幼名は七五三太(しめた)と言った。6人姉弟。

非常に活発な子で1850年(8歳)のとき、足を踏み外した拍子に石に額を打ちつけて、左額に大きな怪我をし、その痕は生涯消ていない。

1853年、浦賀にペリー提督黒船が来航。

14歳の時、安中藩の儒学者・添川簾斎から漢学を学ぶと、藩の中から優秀な3名が、但馬順輔(田島順輔)からは蘭学を学ぶ事となり、新島襄も選ばれた。
1857年、15歳の新島襄は学問所助勤となり、漢文の素読を教える句読師(くとうし)として勤務。
同じ、1857年11月には元服し、安中藩・祐筆補助役に就任する為、初めて江戸をから安中に移り住んだ。
その後、御供徒士となったようだ。
夜中、暗い中、書物を読んでいたせいか、この頃、目を患ったが、なんとか回復している。
安中藩の親戚にあたる備中松山藩の藩儒・川田甕江(かわたおうこう)が安中に来ると、新島襄は蘭学を学んだ。

1860年には、藩の許しを得て徳川幕府の軍艦操練所に入り、洋学・数学を学ぶ。
この時、築地の軍艦操練所で教鞭をしていたのは、ジョン万次郎であり、新島襄はジョン万次郎より数学・航海術などを学び、この事が新島襄の大きな機転となった。
一説には、密航を成功させる方法などもこの時、教わったのではないかとも言われている。

1862年からは甲賀源吾の塾で数学・航海術などを学び、航海実習にも参加した。
1863年には英学に転じ、アメリカとキリスト教に強い関心を持つようになった。

ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書を読み「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意。

新島襄が蘭学を学んだ師である川田甕江が、アメリカ船を購入し、備中松山藩は「快風丸」と名づけて西洋船を取得。
この川田甕江が快風丸に乗船していた縁で19歳の新島襄も乗船。新島襄は往復2カ月間、江戸から玉島(倉敷)まで初めて航海した。玉島では新島襄が旧柚木家住宅(西爽亭)の風呂に入ったという記録が残っている。

江戸にもどると、友人からもらったロビンソン・クルーソーを借りて読んだり、アメリカの地図書や、アメリカの制度に触れると、アメリカに憧れを持つようになったと言う。

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1864年、快風丸が開港地の箱館へと向うと知ると、備中松山藩経由で安中藩の許可を得て乗船。
この時、当時は禁止されていた「海外渡航」を思い立ったとされる。
途中、宮古や下風呂などに寄港しながら4月21日に箱館に到着すると、五稜郭を設計したことで知られる武田斐三郎の塾を4月26日に訪れた。
武田斐三郎から英語を学ぼうとしたが、当の武田斐三郎はこの時、江戸におり英語を教えられる人物がいなかった。
困った新島襄は、武田斐三郎の塾頭・菅沼精一郎(長岡藩士)に頼み、英語を教えられる外国人としてロシア人司祭であるニコライ・カサートキンを紹介してもらった。
ニコライもちょうど、新しい日本語教師を探していたところだったのだ。

このようにして5月3日より、函館ではロシア人司祭であるニコライ・カサートキンの家に住み、ニコライの仕官であるピレルーヒンより英語と世界情勢を教えてもらい、ニコライに対しては日本語を教え、日本の書物(古事記)なども教授したと言う。
このニコライは、ハリストス正教会の伝道師として日本に来ており、のちも日本正教会の創建者となった人物だ。
東京・神田にある大聖堂「ニコライ堂」を建設した人物としても知られる。
また、聖書に興味を持つ新島襄に対して、ニコライは自分の弟子になるようにと勧めたとも言われる。

新島襄は安中藩より年俸だけでなく、支度金15両をもらって函館遊学をしていたが、約1ヶ月後、新島襄はいよいよアメリカ密航を実行するべく、武田斐三郎の塾頭・菅沼精一郎に相談すると、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨に出会った。
この沢辺琢磨は、会津藩・家老である山川大蔵(山川浩)が斗南藩に移った際、生活が困窮して、妹の山川さき(山川咲子・山川捨松・大山捨松)を預けた人物でもあるので、世間は狭い・・。
その沢辺琢磨が、イギリス人の貿易商であるアレクサンダー・ポーター商会で番頭を務めていた福士成豊を紹介。
このようにして、沢辺琢磨と福士成豊も発覚したら死罪を覚悟の上で協力し、新島襄は国禁を犯してアメリカへ密航する事を計画した。
1週間ほどすると沢辺琢磨が、中国に行くアメリカ船の船長と密航の交渉をまとめ、新島襄は函館の知り合いに「安中に帰ることになった」と嘘をつき、渡航の準備を進めた。

1864年7月17日深夜、福士成豊が用意した小舟に新島襄は乗り込むと船底に隠れた。
小舟が波止場を出ようとしたとき、役人から「どこ行く」と呼び止められたが、福士成豊は「船長に急ぎの届け物がある」と説明したと言う。

アメリカ船は「ベルリン号」で、船長のW・T・セイヴォリーは、とても優しい人物だったようで、わざわざ、港からだいぶ離れた所に船を停泊してくれており、小舟が到着すると、陸から見えない裏側に誘導し、新島襄はベルリン号に乗船した。
翌日、出港の際、役人がベルリン号の荷物改めを行ったが、新島襄は船長の協力で発見されることなく、上海に向かって出港した。
函館の港には新島襄の海外渡航の地を示す碑が立っている。

上海に向かう途中では、新島襄はベルリン号の乗客の話が理解できず、殴られた。この際、新島襄は激高し、乗客を斬る為、自室へ刀を取りに行ったが、この程度で耐えられなければ、この先の大きな苦難は乗り越えられないと忍耐したと言う。

ベルリン号の上海からの立ち寄り先は長崎であったため、船長・セイヴォリーは新島襄らの危険を考え、別のアメリカ船で日本には寄港しない「ワイルド・ローバー号」を紹介してくれた。

ワイルド・ローバー号は、ボストンの「ハーディー商会」の船で、船長はホレイス・S・テイラーだった。
新島襄は船賃代わりに長刀を船長に差し出し、アメリカ到着まで無給で働くことを申し出て、テイラー船長に頼んだが、船長も快く迎え入れてくれたと言う。
当時はまだ太平洋航路は充分に開拓できておらず、ワイルド・ローバー号は上海から香港・マニラを経由して、インド洋、大西洋ほ経て、約1年のアメリカへの航海となった。

ワイルド・ローバー号では働きながら英語を学んだ他、航海術も教えてもらったが、テイラー船長から借りた聖書の英語は、この時はまだ、どうしても理解できなかった。
その為、残っていた小刀を船長に8ドルで買ってもらい、香港で漢訳聖書を購入した。

安中藩の新島襄の父・新島民治は、密航前に新島襄より手紙を受け取っており、新島民治は「新島襄は近海で測量中に暴風雨で遭難した」と藩に死亡届を出し、安中藩では死亡扱いとなった。

1865年7月21日、新島襄はボストンに到着し、ついにアメリカに上陸した。
この頃、会津藩ではのち、新島襄の妻となる、山本八重が1人目の夫・川崎尚之助と結婚した頃。
アメリカは南北戦争が終わった直後で、ボストンも疲弊しており、物価も高騰。
日本人密航者の新島襄は、頼るアメリカ人もおらず、当然ながら仕事や住むところにも困った。そんな新島襄を見兼ねた、船長のテイラーは、ワイルド・ローバー号の船主であるアルフュース・ハーディー(ハーディー夫妻)を紹介してくれた。
このハーディー氏は、ハーディー商会だけでなく、銀行も経営する、ボストン有数の資産家で、熱心なキリスト教信者でもあり、恵まれない若者に教育などの支援もしていた。

新島襄はアメリカに来た経緯を英語を話して、ハーディー夫妻に説明したが、英語が通じず、文章で書くように言われて、つたない英語で日本から来た理由を紙に書いたと言う。
そのアメリカに来た理由を知ったハーディー夫妻は、新島襄の純粋な志にうたれて、我が子同然に迎え入れる事にしたのだ。

ハーディー夫妻がテイラー船長に、新島襄の名前を尋ねると、ワイルド・ローヴァー号で船長は「ジャパニーズボーイ」としか呼んでいなかった事から困って「john(ジョン)」だと答えた。
johnには侮辱の意味もあったため、ハーディー夫妻が「ジョセフ」と名付け、この時「ジョセフ・ニイシマ」と言う名前ができたのだ。
新島襄も、ありがたく受け入れ、自らジョセフ・ハーディー・ニイシマ(Joseph Hardy neesima)と、ミドルネームにハーディーの文字を入れて改名した。
のち、日本に帰国した際には、漢字にしなくてはならない為、当初、ヨセフ(ジョセフ)を漢字にして新島約瑟と名乗ったが、当て字が難しい為、ヨセフ(joseph)から最初の3文字を取って、ジョー
= 新島襄として戸籍を取ったのだ。

アメリカではこのようにハーディー夫妻の支援を受けて、フィリップス・アカデミーの英語科に入学。
フィリップス・アカデミーはマサチューセッツ州アンドーヴァーにある名門の中等教育校で、当時は男子校だった。
新島襄の英語力を向上させる必要があった為、ハーディー夫妻は校長に相談し、寮ではなくホームステイ生活することになった。
校長はホームステイ先の候補になったヒドゥン家に、新島襄が書いた脱国の理由文を読ませると、ハーディー夫妻同様にその文面に強く心動かされ、新島襄を招き入れたと言う。神学生のフリント夫妻も住んでいた。

1866年12月には、フィリップス・アカデミーに隣接するアンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けた。
1867年夏にはバカンスを楽しむ為、テイラー船長の生家があるノース・チャタム(North Chatham)でお世話になっている。
しかし、安中藩時代に一度悪くなった目はなかなか良くならず、身体の不調も出始めて来たと言う。
(写真は、アメリカにて、函館密航時の服装を再現するようにと言われて、撮影されたと言う写真)
そして、1867年にフィリップス・アカデミーを卒業すると、名門の私立大学・アーモスト大学に入学。
アーモスト大学は全寮制だったがフリントの紹介で、シーリー家(アーモスト大学の道徳哲学の教授)が現地での世話をしてくれる事になった。
神学生のフリントの紹介状には、礼儀作法において新島襄はジェントルマンであると記されていたと言う。シーリー家は駅で出迎えただけでなく、ハーディー氏の依頼を受け当面必要な金銭などを用立ててくれていた。
この頃の日本は、戊辰戦争となり、母が非常に心配しているといった旨の手紙が日本の父から新島襄に届いている。それに対して新島襄は神が命じるときに帰国すると返信したようだ。

また、このアーモスト大学在学中には、薩摩藩第二次米国留学生(幕府は未承認の為、密航)の湯地定基(ゆちさだもと)が訪ねて来ている。
この湯地定基は、日本帰国後、根室県令として赴任し、北海道でも育つ、ジャガイモの作付を奨励した人物だ。

なお、アメリカまで乗せてくれたあとも、新島襄と家族ぐるみの付き合いをしていたテイラー船長が、1869年12月11日に、ボストンで岸壁と船の間に挟まれて亡くなっている。
電報を受けた新島襄は、ボストンに急行し、葬儀にも参列している。
また、新島襄はアメリカにて、最初に函館から船に乗せてくれた、セイヴォリー船長とも再会している。
しかし、新島襄らの密航を助けたと言う理由で、船会社から解雇されていた事を、セイヴォリー船長は新島襄には離さず、無事にアメリカに来れた事を、大変喜んでくれたと言う。

新島襄は、体調が悪いながらも、化学、植物学、数学、物理学、鉱物学、地理などの学科を学び、1870年には、アーモスト大学を卒業。
新島襄はこの時、日本人として、はじめて学士号(理学士)を取得。日本人が大学と言う教育機関で博士号を所得した第1号なのである。

このアマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていた。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなった。
もう、お分かりであろう。このクラークこそ「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」と言う名言を北海道に残した、あのクラーク博士だ。

新島襄はアマースト大学卒業後、以前に洗礼を受けたアンドーヴァー神学校へ進み、その後は牧師を目指した。

1971年(明治4年)の春、ボストンに森有礼(もりありのり)がやってきて、新島襄と面会する。
この森有礼は、旧薩摩藩士で、この時、駐米少弁務使(現在の駐米大使)としてアメリカに赴任していた。森有礼はその後一橋大学を創設し、日本初の文部大臣にもなっている。
森有礼は、新島襄に対して、日本国旅券と、明治政府の留学免許状を斡旋し、新島襄は密航者ではなく、正式な日本からの留学生となった。

明治政府が不平等条約を改善させるために送っていた使節団「岩倉使節団」がアメリカに渡ると、岩倉具視を筆頭に木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通伊藤博文などは森有礼と合流。
1972年2月、森有礼は新島襄をワシントンに呼び寄せた。
新島襄は、理事官・田中不二麿と面会したが、その際、日本流のお辞儀はせず、田中が握手をしてくるのを待ち、田中が手を差し出すと、新島襄は握手をし、会釈をしたと言う。
この事からも、西洋の流儀を完全に会得した襄に対して田中は大いに感心し、新島襄に日本の教育について論文を書くように命じた。
田中不二麿は新島襄に、岩倉使節団への参加を誘ったが、新島襄は明治政府の配下として働くのを拒み、雇用関係として労働報酬を得られるならと言う条件で同意した。
年俸にして2100ドル。当時、日本円 1円は、現在の20000円の価値とされるので、年俸4200万円と言える。
こうして、三等書記官心得として田中不二麿の秘書兼通訳になった新島襄は、木戸孝允(きどたかよし)とも面会し、木戸は自身の日記に「後来頼むべきの人物」だと新島襄を評価している。

1872年5月、新島襄はアンドーヴァー神学校を休学し、田中不二麿に同行してヨーロッパに渡った。
イギリスではマンチェスターやグラスゴー、エディンバラ大学などを訪問。その後、フランス・ドイツなども歴訪。
視察で得た各国の教育事情を踏まえて、新島襄がまとめた草案は、のちに帰国した田中不二麿によって理事功程という調査報告書になり政府に提出され、明治12年(1879年)に制定された教育令の立案において重要な資料となった。
しかし、ドイツ滞在中に、新島襄はリューマチが悪化し、療養に専念する為、使節団も退職。

その後、ハーディー夫妻の進言もあり、明治6年(1873年)7月、新島襄はアンドーヴァー神学校に1年半ぶりに復学した。
アンドーヴァー神学校を卒業すると、1874年9月、ボストンのアシュバートンにあったマウントバーノン教会で按手礼を受け、正式に牧師となった。
そして、日本に戻り、キリスト教を広めたいと決心する。

グレース教会で、日本にキリスト教の学校を設立したいと演説すると、設立資金として、今の日本円で約1億円にもなる献金が集まった。もちろん、ハーディー夫妻からの多額な援助も含まれている。
その献金の中でも、貧しい農夫が帰りの汽車賃にと、新島襄に駆け寄って手渡したり、帰りの駅にて「教会で差し出すには恥ずかしい金額だったので」と婦人が2ドルを寄付したくれたことが、貧しいアメリカ人まで自分の演説を聞いて、身銭を切ってくれたと、新島襄には大変印象深かったようだ。

1874年11月、新島襄は横浜港に入り、日本に帰国すると、安中の両親のもとに急いだ。
家族にアメリカの事やキリスト教の教えを話すと、父・新島民治や母・とみは、キリスト教に入信したと言う。
3週間の滞在であったが、その住まいは、新島襄旧宅として現在も保存・公開されている。
アメリカ帰りの新島襄に興味津々の、集まってきた安中の人々にも、キリスト教の講義を行うと、30名が入信。彼らは日曜ごとに聖書研究会を開催し、のちに安中教会を設立したのだ。
この安中教会は、群馬県で最初の教会であり、また日本人のみによって設立された最初の民間の教会となるのだ。

安中での学校設立を考えていた新島襄だったが、先に日本に来ていたアンドーヴァー神学校の先輩卒業生などの指示もあり、大阪に移動し、大阪でキリスト教学校の設立を目指した。
東京などはすでに、他のキリスト教派が布教活動を先行しており、入り込む余地がなかったと言う事情もある。

木戸孝允に再び会う好機を得ると、大阪府権知事(副知事的な役職)である渡邊昇(わたなべのぼる)を紹介してくれた。

これより前に、京都は積極的に外国人を誘致した京都博覧会の開催を行い、京都に滞在していたアンドーヴァー神学校の先輩・ゴードンが、山本覚馬にキリスト教の本を渡すなどし、山本覚馬は妹の山本八重と一緒に、キリスト教を学んでいた。
山本八重は、ゴードンの滞在先にも赴き、キリスト教の教えをこいていたが、そのゴードンの借家で、初めて新島襄に出会ったが、最初は「使用人か?」と思っていたようだ。

大阪の渡邊昇は学校設立は認めるが、キリスト教教育は認めない為、新島襄は再び木戸孝允に相談し、1875年4月、京都府大参事(現在の副知事)の槇村正直と面会し、京都でのキリスト教教育学校設立を訴えた。この槇村正直は、旧会津藩士・山本覚馬と共に京都を復興してきた人物だ。
そして、槇村は新島襄の提案を受け入れて、山本覚馬を新島襄に紹介する。

山本覚馬も、既にゴードンからキリスト教を学んでいたこともあり、新島襄の学校設立に大いに賛成。
山本覚馬は、所有していた旧薩摩藩邸の土地を無償で新島襄に進呈しようとしたが、それでは申し訳ないと、新島襄は550ドルで買い取っている。

その頃、山本八重の大胆な行動などを見聞きした新島襄は、山本八重さえよければ、結婚してもいいと考えるようになり、この頃には新島襄からキリスト教を教えてもらっていた山本八重と婚約した。

学校設立の許可として、京都府としては障害なく進み、文部省も田中不二麿との人脈で許可が出たものの、京都は長年「仏教」で反映してきた街。仏教界がそろって大反対を唱えた。
この圧力に、京都府知事に就任していた槇村正直は、山本八重を勤務先の女紅場から解雇。
新島襄は粘り強く交渉した結果、京都に混乱を招かない、学校で聖書は教えない、修身(道徳)の学習のための参照資料としてのみ聖書の使用を認めるなどを条件として、なんとか開校許可が降りる。
新島襄は、単にキリスト教を学ぶ学校ではなく、キリスト教精神をもって日本の将来の担い手を育成する学校にしようと考えたのだ。

学校建設には月日が掛かる為、まずは、中井屋敷を借りて校舎と寄宿舎とし、課程5年制で入学を受け付けた。
授業料は月50銭(現在の価値で1万円)、寄宿生は月3円(現在の価値で6万円)とされ、開校時の教員は新島襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。八重も女紅場での経験を生かし、同志社の運営を助けた。
小さな私塾のような官許・同志社英学校であったが、現在の同志社大学へ繋がっていったのだ。

明治9年(1876年)1月2日、山本八重は洗礼を受け、翌日、新島襄との結婚式を行った。山本八重30歳、新島襄32歳。
同志社の生徒たちは「靴を履いてドレスを着た日本人の女性を見るのは、これが初めてだ」と述べた記録が残っている。

新島八重はドーン夫人と共に、女子向けのキリスト私塾を開校。
明治10年(1877年)4月には、新島襄が京都府に「同志社分校女紅場開業願」を出願。こちらは程なく許可され、京都で初となる私立女学校・同志社女学校が誕生することになった。
新島八重も教員として礼儀作法を教えたと言う。
しかし、京都府と仏教界から疎まれる存在の同志社であったため、その後、山本覚馬も京都府顧問を解任されている。

翌・明治9年(1876年)1月2日に新島襄と山本八重は、J.D.デイヴィスから京都におけるプロテスタント最初の洗礼を受けて、翌日1月3日に結婚。京都では初めてとなる日本人同士によるキリスト教式の結婚式であったとされる。襄32歳、八重30歳。のちに山本八重の母・山本佐久も洗礼を受けている。
以後、新島八重は、新島襄の生存中の約15年間、内助を尽くし、同志社女学校で作法・礼儀などを教えた。新島夫妻は互いに尊重しあい夫婦仲がとても良かったと言う。母・山本佐久も洗礼を受け、明治11年に同志社女子学校が開設されたときから、明治16年まで寮の舎監を務めるなど協力した。

新島襄は明治17年から翌年にかけての欧米旅行中、アルプス登山中にサンゴタール峠で心臓発作を起したときのことを振り返って「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い妻のことを思い……」と、のち生徒たちに語っている。
晩年の新島襄は、自分の死が近いことを悟ると、八重が生活に困らないようにと吉野の山林地主・土倉庄三郎に300円の出資をしてマッチ樹木の株主となり、その利益を妻に配分してほしいと託してもいる。
新島八重も結婚生活のうち、約三分の一を激務の中も療養する新島襄に付添って、北海道、鎌倉、伊香保、神戸などでの布教活動を共にし献身的に看病している。

明治13年(1880年)から同志社大学設立の準備を始め、新島襄は日本各地で寄付金を募る活動を開始した。
井上馨大隈重信・土倉庄三郎・大倉喜八郎・岩崎弥之助・渋沢栄一・原六郎・益田孝などからも寄付金の約束を取付けている。
大隈重信と親交がきっかけで、現在でも、同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)制度がある。

明治19年(1886年)9月には京都看病婦学校(同志社病院)がキリスト教精神における医療・保健・看護活動、キリスト教伝道の拠点として設置されその役割を担う。
この看病婦学校・病院にて看護指導に当たる事となったのが、ナイチンゲールに師事しアメリカ最初の有資格看護婦でもあったリンダ・リチャーズであり、新島八重も大きく影響を受けた。

1887年(明治20年)6月17日、新島襄と新島八重は仙台東華学校の開校式に出席。
その後、避暑・静養のために北海道旅行に行き1887年(明治20年)7月3日に函館に到着。
新島八重と新島襄の2人は函館に4日間滞在した後、新島襄がアメリカに密出国した際の恩人・福士卯之吉に会うため、函館から札幌へ向かった。
新島八重は、函館で住んでいた旧会津藩士の雑賀夫婦も既に札幌へ移住していたことから、新島八重は札幌で、知り合いの雑賀浅と再会もした。
このとき、新島八重は、雑賀浅から、日向ユキも札幌に住んでいることを聞き、1887年(明治20年)7月14日に日向ユキと山本八重は約20年振りの再会を果たしている。

しかし、新島襄の病は進行し、1888年は新年から心臓発作で倒れ、5月には鎌倉でも倒れている。
1889年(明治22年)、新島襄は大学設立の資金を集めるため東京で活動した同志社大学設立運動中に、臓疾患を悪化させて群馬・前橋で倒れ、神奈川県・大磯の旅館百足屋(むかでや)で静養した。
1890年1月18日に左下腹の激痛を訴え、東京から樫村清徳(神田駿河台山龍堂病院)が診察に訪れ、腹膜炎で様態が重いことを告げている。
秘書の永岡喜八は、重篤であることを新島八重に知らせようとしたが、新島襄は静止。
しかし、翌日の1月19日には危篤状態となり、永岡喜八は電報で新島八重に知らせ、1月20日に新島八重が大磯の旅館百足屋(むかでや)に到着。
1月21日の朝に、新島襄は、小崎弘道と徳富蘇峰と新島八重の3人に2時間ほどもかけて10か条の遺言を託して、新島襄は明治23年(1890年)1月23日午後2時20分に死去。死因は急性腹膜炎。胃腸カタルから腹膜炎となっていた。享年46歳。
遺骸は翌日の深夜には京都に到着し、600人ほどの生徒たちが迎えている。

新島襄は死ぬ間際でも太っていた新島八重の体重を心配しており、医師に痩せさせる方法を聞いている。
そんな新島襄も、枕として左手を差し出した新島八重に、「狼狽するなかれ、グッドバイ、またあわん」と最後のことばを残して永眠したと言う。
同年1月27日の13時より、同志社前のチャペルで葬儀が営まれ4000名が参列。京都東山・若王子山頂に葬られた。
墓碑銘は軍艦操練所頭取だった勝海舟の筆。

新島襄の他界後は、山本覚馬が同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力した。

(参考文献) 学校法人同志社、あらすじと犯人のネタバレ、新島八重と新島襄、福本武久著「新島襄と八重」

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