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山本覚馬(やまもとかくま)は会津藩・砲術指南役・山本権八の長男として鶴ヶ城近くの武家屋敷にて1828年1月11日誕生。母は佐久。
山本家の遠祖は甲州流軍学、武田信玄の軍師でも知られる山本勘助が祖であると言われる。
会津藩において山本家は、代々兵学をもって藩に仕えた。妹に山本八重がいる。
山本覚馬は4歳で唐詩選の五言絶句を暗唱したとされる。
藩校日新館でも頭角を現し、22歳の際、大砲の砲術を学ぶべく、藩命で江戸に出て武田斐三郎、勝海舟らがいた佐久間象山の塾に入った。
その後、山本覚馬は、つねづね佐久間象山、横井小楠、勝海舟を三傑にあげている。
23歳の頃には弓馬槍刀と4つの師伝を得て、藩主より賞を受けている。
1853年8月、25歳の山本覚馬は軍事奉行の林権助の江戸随行員にえらばれ、江戸藩邸勤番を命じられ、出大木衷城に蘭書を学んだほか洋式砲術の研究を深めた。
28歳になり会津に戻ると、会津藩校・日新館の教授となり、日新館に蘭学所を開設した。
時代はペリーが来航し時代の激動が始まろうとしていた。
山本覚馬は会津藩の槍・刀から脱却した武器改良の必要性を説き、火縄銃の廃止唱え、西洋式銃を導入した主力部隊の編成を訴えた。 長沼流兵法という古い軍隊制度を採用していた会津藩であり、鉄砲は下級足軽が持つ武器であり、上級武士は刀や槍で戦うと言う会津藩士の美徳が優先された為、山本覚馬は、実際に西洋銃の威力を示し、刀や槍では西洋銃に通用しないことを証明もしたが、この頃の会津藩はまだ固くなで新しい意見はなかなか採用されず、会津藩内の保守派から批判を受け1年間禁足処分(自宅謹慎)となった。
山本覚馬は禁足処分中も西洋式銃の導入を主張し会津藩士を説得し続けり、大砲奉行の林権助の助力もあり、ようやく改革の意見が取り入れられると、山本覚馬は職俸15人口を給し、軍事取調役
兼 大砲頭取に抜擢された。
江戸で親しくなった川﨑尚之助が会津藩校日新館に蘭学所が設置されたことを知り、山本八重の兄・山本覚馬を訪ね、会津・日新館で教授を務めることになり、その縁で山本家に寄宿した。日新館の蘭学所教授は、山本覚馬と南摩綱紀の2人だけだったが、川崎尚之助と古川春英の2人が加わり、蘭学所は充実したのだ。
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1857年、山本覚馬と樋口うら (樋口宇良)が結婚。
1860年、長女が誕生するも夭折。
1862年(文久2年)夏に次女・山本みね(峰、峯)を出産。
その7ヶ月後、藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、軍事奉行・林権助を補佐する為、山本覚馬も京に上り、黒谷本陣で西洋式軍隊の調練に当たるとともに、蘭学所を開いては、在籍藩に関係なく志ある者の為に洋学の講義を行った。以後、山本覚馬は会津の地を踏むことは無かった。
1864年7月11日、佐久間象山が京都で暗殺された際に、山本覚馬は真っ先に駆けつけたと言う。
1864年7月19日、禁門の変では砲兵隊を率いて参戦。山本覚馬は門を開いて突進し、門外において大激戦を展開したと言う。
山本覚馬や中沢帯刀は、大砲隊を率いて鷹司邸に駆けつけると、鷹司邸に砲撃して壁を打ち崩す。さらに、西洋式銃で射撃を加えて立て籠もっていた長州軍・国司信濃の兵士を全滅させた。
この勲功により公用人に任ぜられ、3人扶持が増加し、13人扶持になっている。
これにより山本覚馬は幕府や諸藩の名士等と交わる機会が増え活動範囲を広げるが、眼病を患い殆ど失明同然の状態になる。
山本覚馬が武器の買い付けで長崎を訪れたさい、オランダ人医師ボードインの診察を受けたが、失明は時間の問題と言われた。
失明の原因は禁門の変での破片による損傷、鉄砲や大砲の煙硝が影響、また持病の白内障の悪化などと考えられているが詳細不明。
山本覚馬は御所に出仕していた小田勝太郎と仲が良く、その妹・13歳の小田時栄が、山本覚馬の身の回りの世話をした。
失明という障害を負いながらも、暗殺された佐久間象山の遺児・佐久間恪二郎の世話を勝海舟から頼まれて引き受けたほか、勝海舟から西周を紹介され、西洋事情の見聞を広めたのもこの頃である。
のち山本覚馬は西周の主著『百一新論』を出版した。
佐久間恪二郎は山本覚馬の勧めもあったようで、新選組に入隊している。
西洋銃と大砲に精通した会津藩士は、山本覚馬と川崎尚之助の2人だけだったが、川崎尚之助(山本八重の夫)は正式な会津藩士ではなかったため、会津に残っていた。
山本覚馬は川崎尚之助を京都へ送るよう、会津藩に要請していたが、川崎尚之助が会津藩士ではなかったため、要請は認められなかった。
1865年頃、山本覚馬の妹・山本八重が川﨑尚之助と結婚。
山本覚馬が川﨑尚之助の才能を見抜き、会津藩士にと願った面もあったようだ。
失明状態の山本覚馬は、公用の職から身を引いて、清浄華院において静養していたようだ。
1867年5月、山本覚馬は、ドイツ「レーマン商会」のカール・レーマンにシュンドナールド・ゲベール銃(ドライゼ銃)を1300挺注文。(うち300挺は紀州藩の代理注文)
カール・レーマンは、山本覚馬の西洋式銃に対する知識の深さに驚き、山本覚馬の才能を認めたが、大量の在庫が日本になかったため、山本覚馬に300挺だけ先に納品し、カール・レーマンは調達の為。本国ドイツへと戻った。
残りの700挺は、明治に入った1869年(明治2年)6月29日に神戸へ届くが、既に戊辰戦争は終わっており、この銃は明治政府が買い取った。
しかし、会津藩(斗南藩)は先に受け取った在庫300の代金を払っていなかったため、カール・レーマンから訴訟を起こされている。
1868年、山本覚馬は鳥羽・伏見の戦いに際しては、このままだと会津藩が賊名を得ることを憂い、会津勢を説得するため伏見に駆けつけたが、すでに道路は新政府軍に封鎖されており、やむなく山科より京にはいって、会津藩は朝廷に敵する意のないことを申し開きしようとした。しかし、途上で薩摩兵に捕えられ薩摩藩邸に収容された。
※別説では出入りの商人らに頼み、荷車に食料を積み、会津藩兵に届けようとして京都を出るも捕えられたとも。
薩摩藩は最初すぐに殺害しようとしたが、山本覚馬の優秀さを知っている者がおり、一命は許され、以後は獄中とは言え丁重に扱われたと言う。
この幽閉中に獄中の仲間たちと政治・経済・教育など日本の将来を幅広く談じ、21項目に及ぶ建白書「管見(かんけん)」を提出。これを読んだ小松帯刀、西郷隆盛らは益々敬服し、一層待遇を良くしたという。
目が見えない為、同じく収容されていた会津藩士の野沢鶏一が筆記したと伝わる。
明治元年、仙台藩邸の病院に移され、ここで岩倉具視の訪問を受け、翌年釈放された。
釈放された山本覚馬(42歳)は、京都で小田時栄(16歳)と同棲を始めた。小田時栄は、幽閉中も薩摩藩の許可を得て、山本覚馬の世話を続けており、釈放後も山本覚馬と一緒に暮らしたのである。
明治3年(1870年)、山本覚馬は京都府顧問として京都府の勧業課の嘱託として迎えられ、京都府政を行い京都の近代化に大きく貢献した。
京都の家屋は70000戸であったが、都が東京に移ったあと、60000戸に減少しており、京都の衰退を危ぶまれる中、山本覚馬は、西洋文化に精通しており外国人との人脈もあり、新しい産業政策のプランナーとして最適な人物であった。そして、日本初の博覧会(京都博覧会)を開催するなど、京都を先進的な都市へと導いたのだ。
明治4年(1871年)、京都府の顧問となった山本覚馬は、京都府の大参事・槇村正直の自宅の隣にある空き家100坪へ引っ越した。
この空き家は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾「お芳」の父親で、江戸の町火消しとして有名な新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎邸)で36円で購入した。
大参事の槇村正直は、山本覚馬を「山本先生」と呼んで慕っており、槇村正直が山本覚馬に、自宅の隣の空き家を勧めたという。
1871年(明治4年)10月、山本覚馬とようやく連絡が取れた、妹・山本八重や母・山本佐久と山本みねの3人が移り住んできた。9年振りの再会である。
この移住の際、山本うら(樋口うら)は京都に行くのを拒んだ為、山本覚馬と離婚を望んだ。
このとき、山本覚馬は44歳で、愛人の小田時栄は18歳。山本八重の年齢は26歳。
山本覚馬と小田時栄との間には山本久栄という娘(0歳か?)が生まれており、山本八重を驚愕させたという。
山本覚馬は妻・山本うら(樋口うら)と離婚し、愛人の小田時栄と結婚した。
山本八重が、父・山本権八や弟・山本三郎が死んだことを伝えると、山本覚馬は夜な夜な、山本八重に若松城籠城戦の様子を話すように頼んだ。しかし、山本覚馬はこの頃から足の自由も利かなくなる。
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アメリカから帰国した新島襄の学校設立計画に協力し、山本覚馬は維新後に購入していた旧薩摩藩邸の敷地(6000坪)を学校用地として新島に格安で譲渡。
次いで新島との連名で「私学開業願」を文部省に出願、これが認可された。
この校地は、やがて設立された同志社英学校からその後身である同志社大学に継承され、現在の今出川キャンパスとなっている。「同志社」と言う名称は山本覚馬の命名と言われる。
明治8年(1875年)10月に新島襄と山本八重は婚約し、結婚した。
1877年(明治10年)京都府顧問を解任。
1879年の第1回京都府会選挙では上京区で51票を獲得して府議員に選出され、最初の京都府会議員の一人となり、更に議員の多数決により初代議長にもなった。
この頃の選挙は立候補制ではなく、地区の有権者が、その地区で一番ふさわしい人物に投票すると言う方式であり、議長選出も各議員が思い思いに議長にふさわしいと思い議員の名を記載して投票する方式だった。
翌年、京都府知事の槇村正直を引退に追い込む形を取ると、自らも議長、議員共に辞職し、大学設立に向かった同志社での活動を行った。
1881年(明治14年)5月、次女・山本みねが、横井時雄 と結婚。
1885年(明治18年)、京都商工会議所会長に就任。
明治18年(1885年)5月18日、山本時栄と山本覚馬の2人は、宣教師グリーンの洗礼を受け、キリスト教に入信。
その後、山本家が養子に迎えるため、会津から呼び寄せ、同志社英学校で学ばせていた18歳の青年と山本時栄が不倫をして、山本時栄が妊娠した事が発覚。
山本覚馬はこれまでの献身的な支えに、妻・山本時栄の不倫を許すが、山本八重は許さず、山本覚馬の娘「山本みね」とともに、山本時栄を追い出した。
離婚した小田時栄(山本時栄)は東京へ行ったとも、アメリカへ渡ったとも言われている。
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1890年(明治23年)新島襄が他界すると山本覚馬が同志社臨時総長として、同志社の発展に尽力する。
1892(明治25)年、山本覚馬64歳で没。従五位追贈。墓は若王子にある。
(参考文献) 同志社女子大学、学校法人同志社、ウィキペディア、あらすじと犯人のネタバレ、NHK大河ドラマ、福島県観光交流局
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