小田時栄(おだときえ) 山本覚馬の世話をした女性

 京都守護職となった松平容保の会津藩が、京都を警護した際に、会津藩士・山本覚馬も京に上った。
 しかし、山本覚馬は、まもなく失明状態となり、失明状態の山本覚馬は、公用の職から身を引いて、清浄華院において静養していたようだ。
 その際、御所に出仕していて仲が良かった丹波の郷士・小田勝太郎が、妹の小田時栄(1853年生まれの13歳)を、山本覚馬の身の回りの世話に当てたとされる。

 時枝、時惠、時恵との表記も見受けられる。

 鳥羽伏見の戦いで、山本覚馬が薩摩藩に捕えられると、小田時栄は幽閉中も薩摩藩の許可もあり、山本覚馬の世話を続けた。
 そして、1869年(明治2年)、釈放後も小田時栄は山本覚馬と一緒に暮らし、生活支え、事実上の同棲をした。
 ※明治時代に淫行条例のような法律は無いので合法。

 1871年(明治4年)、京都府の顧問となった山本覚馬は、京都府の大参事・槇村正直の自宅の隣にある空き家へ引っ越した。
 山本覚馬が住んだ家は、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾「お芳」の父親で、江戸の町火消しとして有名な新門辰五郎が京都滞在中に住んでいた豪邸(新門辰五郎邸)である。
 新門辰五郎邸は敷地面積は100坪ほどあり、台所の他に5室ある豪邸で、山本覚馬は36円で新門辰五郎邸を購入し、小田時栄と住み始めた。

 京都大参事の槇村正直は、山本覚馬を「山本先生」と呼んで慕い、槇村正直が山本覚馬に、自宅の隣の空き家を勧めたとされている。
 山本覚馬が会津に残していた家族と、ようやく連絡が取れると、1871年(明治4年)10月、会津から妹・山本八重や母・山本佐久と、山本うらとの間の娘・山本みねの3人が、山本覚馬と共に生活する為、京都に来た。
 山本八重らは応対に出た少女・小田時栄の案内で屋内へ入り、山本覚馬と9年振りの再会をしたと言う。

 山本八重はすっかりと変わり果てた、兄・山本覚馬に驚いた。盲目の山本覚馬は1年もの幽閉で、腰も痛めて、目が見えないだけでなく、まともに歩けなくなっていたのだ。

 山本覚馬(44歳)の正妻・山本うら(樋口うら)は、京都で生きていたことがわかった夫・山本覚馬(44歳)に、小田時江(18歳)との間の娘・山本久栄が誕生していたのを聞き、京都行きを拒み、事実上の離婚と言う事になった。

 山本覚馬は山本うら(樋口うら)が離婚を望んだ事を知ると小田時栄と結婚した。



 明治18年(1885年)、小田時栄が体調を崩したため、山本覚馬は医師ジョン・カッティング・ベリーに往診を頼んだ。
 このとき、小田時栄は31歳で、山本覚馬は57歳であったが、小田時栄を診察した医師ジョン・カッティング・ベリーは帰り際に玄関で「おめでとうございます。妊娠5ヶ月です」と告げたと言う。
 しかし、山本覚馬は「覚えが無い」と驚き、小田時栄に問いただすと、当初、鴨の夕涼みでうたた寝をしているときに、見知らぬ男に犯されたなどと言ったが、最後には、涙と共に、ある青年との不倫の許しを請いた。
 小田時栄は同志社英学校に入学させるために山本覚馬らが会津から招いた18歳の青年と不倫したのだ。

 長年の世話に感謝している山本覚馬は小田時栄の不祥事を許したが、妹の新島八重(山本八重)は「臭いものに蓋をしてはいけない」と言い、小田時栄を離婚させて追い出した。
 こうして、小田時栄は1886年(明治19年)2月19日に山本覚馬と離婚し、山本家を去ったのである。
 小田時栄が生んだ娘・小田久栄は山本覚馬に引き取られた。

 小田時栄がいなくなったその後の山本覚馬の世話は、心得のある「女中」が行ったと言う。

 その後の小田時栄は、大坂の堺市に住んだようだ。
 のち1895年には神戸に移ったようで、小田家の記録によるとアメリカに渡ったと伝わっている時期もあるようだ。
小田時栄73歳頃と考えられる1926年には、東京都日本橋区に住所があると言う記述も発見されている。

 

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