佐川官兵衛 会津藩の「鬼の官兵衛」「鬼佐川」


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佐川官兵衛は1831年10月10日、会津藩士・物頭の佐川直道(佐川幸右衛門直道)(300石)の嫡男として生まれた。
物頭は足軽20人、小頭1人の上に立つ者で、合戦の際には先頭で戦う役職。

佐川家は、もともと高遠の保科正之に仕えていたとされる。


会津藩の場合300石以上の嫡男は、人材育成の為、四書五経、春秋左氏伝、蒙求、十八史略などの学問をし、弓馬槍刀銃のうち1つ以上の武芸免許も習得する必要があった。

江戸詰めの折、本郷大火での幕府方の火筒隊(火消)と刃傷沙汰を起こし、二人を斬り、負傷者多数を出す。話は示談で解決したが、佐川官兵衛は会津に返され、謹慎を命じらた。

1862年、会津藩主・松平容保に従って上洛し、物頭を務めたのち、学校奉行を任じられている。
会津藩主・松平容保が京都守護職を務めた際には、京都日新館の学校奉行、容保が外出する際の警護にあたる別選組(せんべつたい)や諸生組の隊長を兼任。
佐川官兵衛は武勇に秀で、薩摩・長州からは「鬼の官兵衛」「鬼佐川」と呼ばれ、恐れられていた。
佐川官兵衛は京都において結婚。
その結婚当日、槍の名人を学校に招いて酒宴を張り、そのまま酔い潰れて寝てしまった事を、後日、弟らに怒られている。
そんな弟に佐川又四郎がいるが、京都で村田新八らと斬死。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いで、薩長と戦った際は、林砲兵隊に協力し奮戦。刀が折れて銃弾により右眼を負傷したにもかかわらず、平然と指揮を執っていたことから「鬼官兵衛」とも呼ばれた。
後に山川大蔵は「佐川の人望は薩摩における西郷のようだ」と語っている。

その後、会津に戻ると佐川官兵衛は精鋭の朱雀士中四番隊中隊頭として越後水原戦線に1868年4月19日出陣。長岡藩家老・河井継之助と談判し、長岡藩を奥羽列藩同盟に加わらせた。
しかし、戦況が不利となり奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還するよう命じられ、8月1日佐川官兵衛は軍事奉行となり400石加増され若年寄。
8月11日には、西会津の野沢において松平容保より家老就任を命じられ1000石で家老に昇進した。
わずか300石の家から家老職1000石まで出世したのだ。

8月21日には新政府軍に母成峠を突破され、8月22日、松平容保出陣の際には佐川官兵衛が先乗し、23日佐川官兵衛は強清水まで出陣するも、佐川官兵衛、秋月梯次郎らは院内村で遊軍隊・敢死隊・奇勝隊・水戸諸生隊と合流し、建福寺から新橋を経て三ノ丸へ入城する。

その同日8月23日には会津若松城下への侵入を許す。

敵の砲撃が増す中、会津の鶴ヶ城籠城戦においては、薩長の軍が寝ている早朝に、敵陣を攻撃するべく作戦が立てられ、佐川官兵衛は藩主・松平容保より精鋭部隊1000を率いて、城外出撃の総督(指揮官)を命じられる。
松平容保は出撃の前夜、隊員一同を励ますために酒が下賜した。そして、正宗の刀を佐川官兵衛に下賜している。

朱雀士中二番隊(中隊頭・田中蔵人)
朱雀士中三番隊(中隊頭・原田主馬)
進撃隊(隊頭・小室金吾左衛門)
別選組隊(隊頭・春日佐久良)
砲兵隊(隊頭・田中左内)
正奇隊(隊頭・杉浦丈右衛門)
歩兵隊(隊頭・辰野源左衛門)
朱雀足軽二番隊(中隊頭・間瀬岩五郎)
会義隊(隊頭・野田進)

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上記のように、春日佐久良率いる別撰隊。小室金吾左衛門率いる進撃隊。田中蔵人率いる朱 雀士中二番隊。原田主馬率いる同三番隊。間瀬岩五郎率いる朱雀足軽二番隊。
辰野源左衛門率いる歩兵隊のほか、田中左内率いる砲兵隊や正奇隊を加えて総兵力十二中隊、約一千名の出撃隊が編成された。

しかし、出陣前夜に藩主から賜った酒に酔いつぶれたとされ、ようやく目覚めて、8月29日、朝7時頃に出撃した際には、既に敵も目覚めていた。
佐川官兵衛は、西出丸から融通寺町口へと進出し、新政府軍の大垣藩が駐屯する長命寺を取り囲むように攻撃。激しい砲戦の末に三方面から長命寺に突入し、遂に長命寺を占領した。

しかし、すぐさま土佐藩の増援が来襲。会兵の惨状は甚だしく、長命寺より撤退した。このように出撃が予定より遅れたこともあり、損害が激しく作戦は失敗。
新政府軍側の戦死は20名(16名とも)。
一方、会津藩は出撃9隊のうち、5人の隊長が戦死するなど、110名(140名とも、170名とも)が討死し、多くの指揮官や精鋭を失った。(長命寺の戦い)
父・佐川直道(佐川幸右衛門直道、200石)も、佐川官兵衛と共に出撃しており、重傷を負って間もなく戦死。
この佐川直道の下着には、すでに「慶応四年八月二十九日討死 佐川幸右衛門直道 生年六十三歳」と記載されていたそうだ。

そのほか会津藩の主な戦死者は、田中蔵人(600石)、北原四郎 (500石)、杉原丈左衛門(400石)、国府篤三郎(400石)、間瀬岩五郎(350石)、赤羽宇兵衛(350石)、高橋伴之助(350石)、内藤勇五郎(300石)、有賀勝助(300石)、鈴木丹下(250石)、小室金吾左衛門(200石)、庄田又助(200石)、井上八十郎(200石)らであった。

佐川官兵衛の弟も会津で戦死したようである。

その戦いのあと、佐川官兵衛は大部分の兵を城に帰還させたが、自身は城には戻らず、共に残った佐川隊を率いて、米代一ノ丁の小笠原邸に仮の本陣を置き、次の機会を待った。
9月5日には、材木町秀長寺裏の住吉河原において敵の昼休憩中を狙って攻撃し新政府軍を撃退。遺棄された銃砲・弾薬・食糧・毛布・金円など多数を会津若松城に搬送している。
城外における諸戦闘において、会津側の唯一の勝利であった。

以後は南会津などで薩長と戦い、会津藩降伏後も大内宿にて戦っていた。
新選組の隊長になっていた山口次郎(斎藤一)も佐川官兵衛と共に戦っていたと考えられる。
9月24日、田島在陣の佐川官兵衛に松平容保からの親書が届き、藩主からの命を受けて戦いをやめた。
会津藩家老・萱野権兵衛が戦争の全責任を負って切腹を命じらたが、佐川官兵衛は自分を処断するよう懇願したと言う。

戦後は藩主・家老・若年寄らと一緒に東京で謹慎した。
謹慎を赦され、多くの会津藩士が移り住んだ青森県三戸郡五戸町へ移住。この青森で、妻を失っているようだ。
新藩庁への出仕は拒み続け、老母を抱え極貧の生活を送ったが、警視庁を設立し初代長官に就いていた川路利良(薩摩藩士)に、人望も高かった「鬼官兵衛」に警視庁の出仕を求めた。
はじめは固辞していたが、佐川勘兵衛は、窮乏にあえぐ多くの旧会津藩士たちに何とか生計の途を与えたいと決意し、300名の旧藩士を伴って東京に赴き警視庁に奉職。大警部に就任した。
1877年(明治10年)西南戦争が勃発すると多くの軍人と一緒に警察官も出陣し、斎藤一も九州に赴いていた。
佐川官兵衛も豊後口警視隊の一番小隊長兼副指揮長として小倉に上陸。その後、熊本・阿蘇の二重峠に進出し、旧藩士を率いて白水村に滞在。
阿蘇の地では部下に一切の略奪、暴行を禁止し、地元の人たちにはいつもにこやかな態度で接したと言われている。
西郷軍と遭遇した際、坂梨峠で7時間にわたる死闘を展開。
左腕に貫通銃創を負ったが、手拭いで縛って奮戦。
敵の小隊長・鎌田雄一郎と一騎打ちとなったが、藪から狙撃され胸に2発受け戦死した。享年47歳。
大分縣護國神社に墓がある。





なお、佐川官兵衛の長男・佐川直諒は陸軍将校(大尉か?)となり、近衛歩兵第2連隊第3中隊長として日露戦争で戦死している。
ちなみに、佐川直諒の妻は旧会津藩士・高木盛之輔の二女・高木泰子。高木盛之輔の姉は元新撰組・斎藤一の妻・高木時尾

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(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ、戊辰戦争百話・会津

村田新八とは~西郷どんと共に西南戦争まで従った初志貫徹の薩摩武士

 

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