萱野権兵衛 会津藩家老・会津戦争の責任を取り切腹 


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 幕末に会津藩の家老を務めた萱野権兵衛(萱野長修)。

 萱野家はもともと伊予の加藤嘉明に仕えていた。
 加藤嘉明が国替えで会津に移ると、それに従って萱野家も会津に移った。
 しかし、加藤嘉明の子・加藤明成が江戸幕府から咎めをうけて改易除封となり、萱野家は浪々の身となり、一族は辛い時期を過ごすことになった。
 しかしながら、新たに会津藩主となった保科正之が召し抱えたのだった。

 萱野家は会津藩の番頭(侍大将)や奉行を務める名家であり、父の萱野長裕が家老に取り立てられると家禄は1500石となった。
 萱野権兵衛(萱野長修)は、幼少の頃から武道の錬磨に励み、藩中指折りの剣士で一刀流溝口派の達人として知られたと言う。
 また兵学にも精通し、 家を継ぐ前から藩校日新館にあって武講の教官を勤めていた。
 読書は漢学のほか好んで歴史を研究し、謡曲や茶道にも通じ、特に茶道は秘奥に通じたようだ。

 会津藩が京都守護職を務めていた1863年に、萱野権兵衛(萱野長修)が萱野家の家督を継いだ。

 1865年に、萱野権兵衛(萱野長修)は会津藩の家老に昇進し、藩主・松平容保の側近として務めた。

 1868年の鳥羽・伏見の戦いの際に京都に滞在していた。
 新政府軍が東北に迫ると、会津藩の重臣の多くは陣将として国境に派遣されたが、萱野権兵衛(萱野長修)は日光口を担当した。
 いよいよ新政府軍が会津に迫った際には、大寺に軍を進めて新政府軍に備えた。
 しかし、新政府軍は南方の母成峠を進軍した為に戦闘には至らず、会津若松城が包囲されてからは、高久村に布陣して城内との連絡や城への補給を担当した。
 田中土佐・神保内蔵助の両家老は自刃、西郷頼母は城を去り、萱野権兵衛(萱野長修)は国家老の主席となり、籠城戦を指揮した。

 髙久村で中野竹子らが、萱野権兵衛(萱野長修)に、戦闘に参加したいと願い出たのは有名な話である。

 萱野権兵衛の妻のタニ、母ツナ(65歳)、次男・萱野乙彦(12歳)、三男・萱野寛四郎(11歳)、四男・萱野五郎(4歳)、長女・萱野リウ(9歳)、次女・萱野イシ(7歳)ら家族7人は、新政府軍が会津若松城に迫った際、入城するべく準備をした。
 この際、前日より、林権助の家族(林権助の妻エイ、又一郎の妻シゲ、磐人9歳、トラ5歳、某2歳)の5人も萱野家に宿泊していたので、合計12人だった。

 朝食を済ませると、タニは姑ツナを伴い、用人・鈴木源吾及び女中に子供たちを伴わせて林家の人々とともに、三ノ丸より若松城に入った。
 無事入城を果たしてから女中を出城させたが、続々と入城して来る人の数を見ると、タニは大勢の足手まといを連れて来たのは城中の煩いとなるばかりであったと思い直し、不憫ながら我が子を介錯するほかはないという考えに至った。
 ついては心おきなく成仏するよう申し聞かせるべく思案中に、本丸より小姓頭某がきて「御身らは萱野殿の御家族とお見受けする。殿中には人手少なく御難渋ゆえお迎えに罷(まか)り越した。一刻も早く照姫様お側へ御出頭あるべし。瞬時も御猶予あるべからず」という。タニは火急のお召しに驚き、すぐさま幼児を背負い、次女の手を曵いて一目散に本丸へ駈けつけた。おかげで幼児らは辛うじて一命を取りとめることができたのである。

 1868年9月22日 午前10時、会津藩は新政府軍に降伏し、会津若松城は開城となった。
 この際、萱野権兵衛は藩主・松平容保とともに降伏文書に署名。
 新政府軍は会津藩の戦争責任を追求すべく、会津藩に首謀者を出頭させるよう命じた。
 この時、会津藩から出頭することになったのが萱野権兵衛だったのだ。

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 会津藩では家老の田中土佐と、神保内蔵助、萱野権兵衛の3人が戦争を指導したが、田中土佐と神保内蔵助は、すでに切腹しており、西郷頼母も行方不明。
 結果的に家老で4番目地位だった萱野権兵衛が1人で責任を負う事となった。

 萱野権兵衛はまもなく、江戸の謹慎先に送られる松平容保の一行と共に会津を離れ、江戸の久留米藩邸(有馬家)に幽閉され、主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と述べて主君を命がけでかばったと言う。

 1869年5月14日、萱野権兵衛に対し切腹の命が下った。
 切腹の場に当てられた飯野藩保科邸から、5月18日に迎えが来た。
 有馬家に厚く礼を述べ、保科邸に向かったと言う。
 保科邸に梶原平馬山川大蔵(山川浩)が来ており、旧藩主・松平容保と照姫からの親書を携えていたと言う。
 松平容保の親書には「私の不行き届きによりここに至り痛哭にたえず。その方の忠実の段は厚く心得おり候」とあり、また照姫の親書には、松平容保・松平喜徳の身代わりを気の毒に思うとあり、「夢うつつ思ひも分す惜しむそよ まことある名は世に残れとも」と一首が添えられていた。

 公文書には刎首とあるが、飯野藩保科家の下屋敷では、武士の情けを受け座敷内での切腹を許可された。
 保科家家臣の剣客・沢田武治が介錯している。
 萱野権兵衛は一刀流溝口派の相伝者で、奥義が絶えるのを惜しみ、死を前に火箸を使って井深宅右衛門に伝授したと言う話がある。

 墓は東京白金の興禅寺と会津若松市の天寧寺にあり、現在も墓前祭が行われている。
 享年は40説、41説、42説とある。

 萱野権兵衛の遺族には、松平容保から金五千両が下賜された他、自刃見舞いとして銀二十枚、松平喜徳からは銀十枚、照姫から銀二枚を賜わった。
 萱野権兵衛の切腹により萱野家は断絶。その為、残された遺族は、萱野権兵衛の妻・タニの旧姓である郡(こおり)姓を名乗った。
 また、松平容保の子・松平容大が外桜田門に狭山藩邸を賜わると、松平家ではその邸の一部を割いて萱野権兵衛の遺族らを住まわせたと言う。

 母と一緒に籠城した次男・萱野乙彦は、郡長正(こおり・ながまさ)と名を改め、15歳の時、小倉藩小笠原家の招きで藩校・育徳館に留学する7名に選抜された。
 しかしこの留学中に母から届いた手紙を落とし、小笠原藩士の子弟に大衆の面前で罵られる事件が起こる。
 郡長正は「私は会津士魂を辱めた」と言って小倉藩の豊津で切腹した。享年16。
 それを聞いた旧会津藩士は皆「さすがは萱野国老の子息よ」と讃歎したという。

 2013年には、会津藩士が戦後移住した、青森県三戸町の悟真寺にて、萱野権兵衛の位牌が発見されたと言うニュースもあった。

 

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