中野竹子~会津戦争で討死にした薙刀の名手で美女


スポンサーリンク
スポンサーリンク

中野竹子は、会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女として江戸城・和田倉門内にあった会津藩邸で生まれ、江戸で育った。

誕生年は1847年3月が有力。1850年とも。

中野竹子は幼い頃から聡明で、5歳で百人一首を暗唱したという逸話が残ってい。また、佐藤得所に書道を習い、文武に優れ、中野家の姉妹はかなりの美人だったとされる。

会津藩主・松平容保の義姉になる、松平照姫に武道の指南をしていた赤岡大助からは、7歳ころから薙刀を教わり、薙刀の腕前は道場の師範代であった。

中野竹子が薙刀を習った師匠・赤岡大助は、大坂の御蔵奉行として赴任する前に、中野家に懇望して、17歳前後の中野竹子を養女に迎えている。

中野竹子は養女として一時大阪に住んだとされ、その後、養父・赤岡大助は、兄の息子(玉木某)を養子にして竹子と縁組させ、中野家を継がせようと考えたが、当の竹子自身が「藩が危急存亡の時を迎えているのに、縁組どころではない」と、19歳の頃、養子縁組を破談して、実家の中野家へ戻った。

文武両道で色彩兼備と聞いた、備中庭瀬藩主・板倉侯夫人が、中野竹子を祐筆にとの話もあり、実家に戻ったともされる。

鳥羽・伏見の戦い」の後、藩主・松平容保が徳川慶喜から登城禁止を言い渡されて会津へ戻ったことに伴い、中野竹子ら一家も会津に引き上げた。

中野家は江戸暮らしであった為、会津には屋敷が無く、坂下(ばんげ)にて親戚の書院を借りて住むことになり、地元の子供らに字などを教えたと言う。(米代二ノ丁に住んだとも?)

会津では家に風呂が無かったようで、入浴するには銭湯に行った。

この時代までの日本の公衆浴場の多くが混浴で、田舎の会津でも例外ではなく、中野竹子は1~2回、会津で銭湯に行ったことがあるとされる。

しかし、その美しさと気品から、男たちの目を釘付けにしたそうだ。

中野竹子はあまり風呂屋へは行かず、自宅のタライで入浴したり、タオルで体を拭いたりしたと言うが、藩内で中野竹子は絶世の美女と騒がれ、覗きに来た男を中野竹子は、薙刀を振り回して追い払ったという逸話が残っている。

スポンサーリンク


1868年8月23日、会津藩若松城下に、敵接近の早鐘が鳴り響いた。

中野竹子は母・こう子、妹・優子と共に、籠城しようと鶴ヶ城へと急いだが、既に門は閉められて若松城へ入城できなかった。

そんな折り、中野竹子は、同じく逃げ遅れた依田まき子35歳、依田菊子(水野菊子)18歳、岡村すま子30歳の3人と出会う。

皆、日ごろ鍛錬を重ねた薙刀道場の娘たちであり「娘子隊(婦女隊)」を自発的に結成。

さらに、入城できなかった神保雪子(神保修理の妻)などが続々と薙刀を持って集まり、娘子隊(婦女隊)は20名以上になった。

娘子隊(婦女隊)は、会津藩正規軍ではなく、逃げ遅れた女性らが中野竹子らに合流して自然に結成した義勇軍的なものであり、当時は部隊に名前は無く、あとになってから「娘子隊」または「婦女隊」と呼ばれるようになった。

中野竹子らは、会津兵から会津藩主・松平容保の義姉・照姫が、城下の坂下へ避難したと聞き、照姫を警護するべく坂下へ向かった。
しかし、照姫を発見することができず、中野竹子らは坂下の法界寺で宿泊。

翌日、照姫は会津若松城にいることをつきとめ、城へ向かった。途中、城下西北の高久宿に駐留していた会津藩の家老・萱野権兵衛に従軍を願い出た。
しかし、「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩の武士の名折れ」と家老・萱野権兵衛は「城に帰って女中の仕事をして欲しい」と言い、従軍を拒否。
中野竹子らは「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」と言い、家老・萱野権兵衛は仕方なく、明日、城に向かって進軍する古屋作左衛門の率いる衝鋒隊(旧幕府歩兵)約400への従軍を認めた。

娘子隊(じょうしたい)の女性全員が髪を切、男装していた。断髪していたので、中野竹子の妹・中野優子は白虎隊に間違われたと言う話もある。
8月25日夕方、福島県若松市神指町大字黒川にかかる涙橋にて、新政府軍と戦闘になった(涙橋の戦い)。
新政府軍は長州藩・大垣藩の兵だったとされ、新政府軍の兵は、衝鋒隊に女が混じっているため、当初は娘子隊を生け捕りにしようとした。
しかし、中野竹子らの太刀を受け、慌てて鉄砲を構えたという逸話も残っている。
鉄砲を撃ちあっていたが、なかなからちあかないので、衝鋒隊は敵に斬込む。
中野竹子は数人を斬り殺して善戦したが、鉄砲で頭を撃たれてしまう。(胸を撃たれたという説もあり)
妹・中野優子の後日談によると、この時はまだ息があったと言う。
倒れた姉・中野竹子の元へ、妹・中野優子16歳と母・中野中野こう子(孝子)44歳は駆け寄り、中野竹子の頼みで介錯。
中野竹子の首を切り取ろうとしたが、髪が絡みついてうまく切り取れなかったが、郷士身分の上野吉三郎が首を回収したと考えられる。
中野竹子の首は法界寺にあった梅ノ木の根元に埋葬された。享年22が有力。18、20と言う説もある。

スポンサーリンク


中野竹子の薙刀には、辞世の句を書いた紙が結ばれていたようで、紙には「武士の、猛きこころに、くらぶれば、数にも入らぬ、我が身なからも」と書いてあったと言う。

籠城6日目、生き残った娘子隊(婦女隊)は城に戻り、負傷者の介護などをしていたが、山本八重も薙刀を習得していたことから、中野こう子は山本八重を見かけると「なぜ娘子隊に加わらなかったのか?」と問いたと言う。
すると、山本八重は「私は鉄砲で戦う考えでおりました」と答え、山本八重は薙刀では通用しないことが分かっていたとされる。
中野こう子は、当初、参加しなかった山本八重を卑怯者と考えていたが、娘の中野竹子を鉄砲で失い、鉄砲の威力を知ったことで、山本八重に「娘に鉄砲を教えて欲しい」と頼んだのであった。

(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ、あらすじと犯人のネタばれ、福島県観光交流局

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でフォローしよう!

スポンサーリンク


関連記事

あなたの思いを下記に

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. 2015年 1月 22日



メールでお知らせ

メールアドレスを記入して購読すれば、新規記事追加をメールで受信できます。

ページ上部へ戻る