会津藩の松平照姫~会津藩・松平容保公を支えた高貴な女性


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照姫は、第9代上総飯野(現在の千葉県富津市)藩20000石の藩主・保科正丕(ほしなまさもと)の3女として1832年12月13日に、江戸藩邸にて生まれた。
正しい漢字は「熈」だが、自ら「照」と書いた姫。

上総飯野藩は、会津藩の支藩であった縁から、照姫は10歳(1842年)になった際、会津藩8代藩主・松平容敬の養女となり、会津藩江戸屋敷に移り育った。
照姫は美貌で書道、茶道、礼法に通じ、和歌が巧みで2歳年下の会津藩9代藩主・松平容保も照姫の手ほどきを受けていたと言う。
松平容敬の子どもはいづれも早世していた為、将来、照姫に婿を迎え、会津藩を継がせるつもりだったようだが、その後、松平容敬の側室が1843年に敏姫を生んだため、その敏姫の婿養子として、美濃国高須藩主・松平義建の6男であった松平容保を1846年に迎え、松平容保は敏姫の成人を待って1856年に結婚した。

1850年、18歳になった照姫は、豊前中津藩(現在の大分県中津市)100000石の藩主・奥平昌服(20歳)の正室となったが、照姫は1855年、僅か23歳で離縁し江戸会津藩邸に戻った。夫婦仲は良かったとされるが、子が出来なかったとは言え、側室制度がある時代でもあり、離婚の理由はよく分かっていない。
1852年に照姫の養父だった松平容敬が死去。中津藩では1855年に、それまで藩の実権を握っていた奥平昌服の祖父・奥平昌高が亡くなっている。
照姫が江戸に戻った理由は不明だが、婚儀に関わった父2人が亡くなった事が大きく影響しているのかも知れない。
のちの会津戦争の際に中津藩は新政府軍に味方し、会津に兵を出している。

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松平容保の正室(松平容敬の実娘)敏姫が1861年に19歳で他界。
敏姫は幼いころに疱瘡(ほうそう)に掛かり容姿に罹った後が残っていたとされ、心身共に衰弱し、病弱だった。

敏姫亡き後には、松平容保と照姫との婚姻の話も出たと考えられる。結果的に結婚は実現はしなかったが、松平容保も継室を設けなかったので、会津藩の奥向きは照姫が取り仕切った。

1863年3月、生麦事件のあと薩摩藩とイギリスとが対立すると、江戸を巻き込んだ戦争の可能性が高まった為、照姫は江戸から会津に初めて赴いたが、当初は江戸藩邸を離れる事を拒んだと言う。その後、江戸藩邸に戻った。

松平容保は京都守護職の際、孝明天皇から贈られた純緋の布で仕立てた陣羽織を着て写真撮り、江戸の照姫に送ったと伝わる。

鳥羽・伏見の戦いのあと松平容保らが江戸へ戻った際、1868年2月、37歳になっていた照姫も会津藩士とともに、再び会津に赴き、会津若松城に入城した。
高木時尾などが照姫の右筆(書記)を務めたようだ。

1868年8月23日、新政府軍が鶴ヶ城下へ進攻した際、照姫は城から出て、会津坂下に退いた。
その話を聞いた会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女・中野竹子(22歳)らが、照姫を護衛するため自発的に「婦女隊」を組織した。

婦女隊は斬髪し男姿となり、照姫を護衛すべく会津坂下に向かったが、既に照姫は城に入っていた模様で発見することが出来ず、やむなく、会津坂下の法界寺に宿泊。
※照姫じたいが城下に退いていない=退いたのは誤報とする説もあり
翌24日、付近の高瀬村にて家老・萱野権兵衛に従軍を申し出るも、女子であるために拒否されたが、翌日には衝鋒隊への同行を許可された。
25日、婦女隊は涙橋の戦いで新政府軍相手に戦い、中野竹子が額に銃弾を受けて討死。中野竹子の首級は、政府軍に奪われることをよしとしない妹・中野優子が介錯し、白羽二重に包み回収された。(母・中野こう子が介錯したと言う説もある)
この際、鳥羽・伏見の敗戦を招いた責を一身に負い、切腹していた軍事奉行添役・神保修理の妻、神保雪子も、夫の後を追うようにのちの会津戦争で戦死したとされている。
その後も婦女隊は数日間、涙橋周辺での戦いに参加したが、その後は鶴ヶ城に入り籠城支援に回った。
山本八重は銃で戦っていた。

会津若松(鶴ヶ城)城にて照姫は奥殿の女中、若年寄格表使・大野瀬山、御側格表使・根津安尾に命じて、約600人の婦女子を指揮。
籠城の炊事、負傷者の看護、各所で起こった火災の消化と防火処理、不足した弾薬の製造などを担当した。
城内の包帯をすべて使い切ると、照姫は自らの衣装を包帯の代わりに使うよう指示したと言う。
特に、傷病者の食事については自らが精力的に行ったとされ、最後には白旗作りまで行ったと言われ、会津の女たちが涙とともに縫い上げたこの旗は9月22日城門に掲げられた。

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昭和41年発行の『会津若松市史』には下記のように籠城戦の話が記載されている。

「藩主容保の義姉照姫を中心に奥女中・藩士の妻女が、片時 も休むことなく負傷者の看護・炊事・弾丸の製造にあたった。負傷者の治療にあたったのはオランダの軍医ポンペに西洋医学を学んだ旧幕府医学所頭取・松本良順で、ガーゼ・包帯・アルコールを使用し、食料不足にもかかわらず病人には牛乳・魚・鳥・肉・牛肉などを与えた。しかし医薬品の不足に悩まされ、戦傷者の多くは膿毒症らしい症状で死亡した」

会津藩が降伏すると藩主・松平容保は僅か30名程の従者と共に山駕籠に乗り北大手より六日町を通って滝沢村の郊外の妙國寺に蟄居。
照姫も後を追うように妙國寺に向かい、途中、新政府軍兵士の中には揶揄の言葉を浴びせる者もあったが、無事に妙國寺に入ると、髪を切り照桂院と名を改めた。
その後、松平容保・松平喜徳親子は東京へ護送されたが、照姫は妙国寺にて冬を越し、1869年に東京青山の紀州藩邸預かり処分となり、お付きの者21名と共に2月29日会津を出発し、3月10日東京に到着した。

会津藩家老・萱野権兵衛が会津戦争の責任を負う形で、斬首命令が下り、照姫の実家である飯野藩が執行することになった際には、遺族に見舞金として銀2枚を贈っている。
飯野藩保科家では明治政府には斬首と報告したものの、罪人扱いの斬首ではなく、忠義の武士である萱野権兵衛には切腹として最後を全うさせたと言う。
その後、照姫は1869年12月に紀州藩邸から飯野藩邸に預け替えとなり、照姫は27年振りに実家に戻った。

一時、多くの旧会津藩士が移住した斗南入に赴いた際には、倉沢平治右衛門が手を尽くして、照姫の住居などの手配をしたらしく、斗南を去るときに照姫自らの着物などを倉沢家に残していったという。



晩年、飯野藩は海が一望できる竹芝に高殿を建て、照姫に住まわせたと言う。
照姫が明治13年に会津を再訪した際には東山温泉の向滝に宿泊し「岩くだく滝のひびきに哀れそのむかしの事もおもひいでつつ」と詠み、会津藩婦女子とともに籠城戦を戦ったのを思い浮かべたという。
明治17年、東京・小石川の保科邸で55歳の生涯を閉じた。
墓所は実家ではなく養父・松平容敬や松平容保が眠る会津若松の松平家墓所に埋葬された。

幕末と言う時代に翻弄されながらも 優雅で美しく 誰にも優しく 気高く聡明であり、ここぞと言うときには強さも発揮し頼りになる お姫様 であったと考える。

(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ、福島県観光交流局

 

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