松平容保 幕末の会津藩主・京都守護職・会津中将 賊軍の汚名をきせられても




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松平容保とは

松平容保(まつだいらかたもり)は、天保6年12月29日(1836年2月15日)に、美濃の高須藩主・松平義建の6男として誕生した。
母:古森氏で会津松平家第8代藩主・松平容敬の養女。

その縁もあり、1846年に叔父である会津藩8代藩主・松平容敬の娘・敏姫と婚約して養子となった。
上総飯野藩主・保科正丕の娘・松平照姫は既に1843年に松平容敬の養女となっていたので、2歳年上の義姉とも江戸藩邸にて共に過ごしたが、照姫は1850年に中津藩主・奥平昌服に嫁いだ。

1852年に養父・松平容敬が死去した為、松平容保が会津藩の家督を継いで肥後守に就任。
1853年にはアメリカのペリー提督による黒船来航となり、次第に「攘夷」を幕府に迫る世の中となった。
1854年、照姫が離縁して、江戸の会津藩邸に戻っている。
1856年、14歳になった敏姫と松平容保22歳は正式に結婚。

1861年、正室・敏姫が19歳で死去。松平容保は以後、正室を設けなかったため、奥の事は照姫が取り仕切った。


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この頃には、尊王攘夷論が天皇がおわす京都を中心に渦巻き、幕末の志士らが京に集まったことで治安が悪化した。
薩摩藩主・島津久光の発案により「京都守護職」が新設されると、徳川慶喜松平春嶽は松平容保に就任を要請。
会津藩家老・西郷頼母は「とても予算が無い」と断わるよう進言したが、松平春嶽から会津藩主の祖・保科正之が残した家訓にある、幕府への忠誠を引き合いに出され、松平容保は就任要請を受けて、1862年12月に家臣らを率いて京に上り、京都守護職に就任すると孝明天皇に拝謁した。

そして、佐幕派・公武合体派の中心人物となり、近藤勇新選組や京都見廻組などを配下に加えるなどして、京都の治安維持にあたった。
攘夷派や倒幕派の志士を摘発するなどした結果、孝明天皇からは大きく信頼され、また徳川慶喜と、松平容保の弟である桑名藩藩主・松平定敬とともに、江戸幕府からある意味独立した状態で幕政指揮を取ったため「一会桑体制」とも呼ばれた。

1863年、上洛した14代将軍・徳川家茂の警護も任され、8月18日の「八月十八日の政変」では、攘夷派の公家や長州勢を京都から追放することに成功。
この功は天皇からも賞賛され、宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を下賜されると言う名誉を得た。

1864年7月19日、蛤御門の戦い(禁門の変)の際には、体調を崩して床に伏せっていたが、御所に攻め入る長州勢相手に、病身を押して会津藩兵や新選組を指揮して撃退した。

その後、坂本龍馬の仲介で長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛大久保利通らが「薩長同盟」を秘密裏に結ぶと、倒幕が現実味を帯び、1867年10月、徳川幕府の15代将軍・徳川慶喜は大政奉還をした。
これにより、守護職も廃止されることとなったが、鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰戦争が勃発。

松平容保は徳川慶喜を警護する為、大阪城にいたが、徳川慶喜に松平定敬とともに連れられて、勝海舟が寄港した軍艦で江戸へと敗走し、旧幕府軍も敗退した。

朝敵となった徳川慶喜は新政府軍に対し恭順姿勢をとり、説得しようにも松平容保は、江戸城への登城停止を命じられ、やむなく会津へ帰郷して自ら謹慎した。

会津籠城戦

江戸城無血開城後、会津藩としては新政府への恭順を示し、会津藩に同情的な仙台藩・米沢藩などは奥羽越列藩同盟を結成し、新政府軍に会津藩赦免を求めた。
しかし、新政府は松平容保を朝敵とし、会津討伐に動き出しため、恭順をやめて新政府軍との徹底抗戦を決意した。

進撃する新政府軍の最新兵器の前に、抗戦した東北各藩は次々に敗北。
旧幕府軍の象徴的な存在となった会津藩にも、ついに新政府軍は総攻撃を開始し、松平容保らは予備兵力の白虎隊も投入して会津若松城にて篭城。
 
西郷頼母、山川大蔵佐川官兵衛斎藤一、秋月悌二朗らは城内・城外でも戦い、約1ヶ月の籠城戦となったが、奥羽越列藩同盟の諸藩が相次いで降伏し会津藩は孤立。

その為、松平容保は1868年9月に降伏した。

会津籠城戦

薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠の配慮で、松平容保は命は助けられ、鳥取藩池田家に預かりとなり、東京にて蟄居した。
なお、会津藩家老の萱野長修が、新政府より責任を負わされて切腹している。

明治2年に、側室・佐久(田代孫兵衛の娘)との間に、松平容大が誕生すると、御家再興は許されて松平容大が斗南藩主とにった。
その後、明治5年に松平容保も蟄居が許されたが、賊軍の汚名に対して一切弁明しなかったと言う。



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明治13年(1880年)には、日光東照宮の宮司となると、明治20年には従三位に昇叙。

そして、明治26年(1893年)12月5日、東京の目黒の邸宅で肺炎のため死去。享年59歳。

松平容保の死後、亡くなるまで肌身放さず持っていた一本の竹筒が発見された。
竹筒の中には、あの孝明天皇の御宸翰が入っていたと言う。
会津が天皇の信頼を得ており、賊軍ではなかったと言う唯一の証である。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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