高木時尾 ~ 山本八重の親友で新選組・斉藤一の妻




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高木時尾幕末の会津藩大目付・高木小十郎の長女として1846年に生まれた。母の藤田克子は大変な美人であったらしい。

山本八重より年齢で1つ年下。山本家とは斜め裏の隣家であったことから山本八重とは親友であった。

また、高木家と日向家とは隣どおしで、 日向ユキは良く高木家で過ごしていたと言う。

高木家の祖母が裁縫を教えており、日向ユキや山本八重も高木家で、供に裁縫を学んだ。高木家の祖母は盲人だったが、何でも出来る人だったという。

父・高木小十郎は、京都禁門の変にて戦死。

その後、長男・高木盛之輔(せいのすけ)が家督を継ぎ、祖母と母と姉・高木時尾の計4人が生活した。

高木時尾は会津藩八代藩主・松平容敬の養女であった照姫付の中臈で右筆(書記)を務めた。
会津戦争の際、山本八重が戦う際に男装・断髪の髪を、脇差で切ろうとしたがうまく行かず、高木時尾が髪を切るのを手伝ったとされ、高木時尾は、その後、鶴ヶ城内にて負傷者の応急看護等にあたった模様。

高木盛之輔は15歳だったため、護衛隊として藩主の側近を勤め滝沢本陣と戸ノ口原の斥候伝令を担当した。


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会津藩降伏後、会津藩の戦死者は罪人として扱われ、亡くなった会津藩兵らの亡骸は埋葬を許されず、6ヶ月も城下に放置され続けた状態だった。
ようやく遺体埋葬が許された際、高木時尾は会津七日町の阿弥陀寺にて埋葬を手伝うなど、心優しく気丈で会津人らしい女性であったと言う。
時期は不明だか、討死にした会津藩士達を葬るのに尽力したため、松平容保公から阿弥陀寺の一画(墓地)を貰い受けた。

その後、会津藩家臣らが青森の恐山周辺に強制移住させられた際、斗南に移住。そして、同じく移住していた元・新選組斎藤一と結婚。(斎藤一は再婚)
斉藤一は、会津で戦い、会津藩降伏後、捕虜として会津藩士とともに謹慎していたので、旧・会津藩士と共に行動していたのだ。
結婚の際には、松平容保公が上仲人、元会津藩家老・佐川官兵衛山川浩(山川大蔵)、倉沢平治右衛門が下仲人を務め、斎藤一はこの時、妻の高木時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名した。

1874年(明治7年)7月、藤田五郎(斎藤一)が警視庁の警官として採用され、時尾も東京に移住した。

西南戦争では、藤田五郎(斎藤一)が別働第3旅団豊後口警視徴募隊3番小隊半隊長として参戦。大砲2門を奪取するなど目覚ましい活躍をみせ、東京日日新聞(毎日新聞の前身)にて報道もされた。

藤田五郎と時尾との間には、長男 勉(明治9年2月15日)、次男 剛(明治12年10月4日)、三男 龍雄(明治19年7月1日)と、3人の子供をもうけている。

藤田五郎が退職後に東京高等師範学校(現在の筑波大学)の守衛、その後、東京女子高等師範学校(現在のお茶の水大学)の庶務掛兼会計掛を務めていた縁から、東京・本郷区真砂町(現在の東京都文京区本郷4丁目14番あたり)の自宅に女子高等師範学校の生徒を下宿させていた。

1907年(明治40年)には会津戦争の犠牲者慰霊のため、会津出身の婦人10人と会津・阿弥陀寺に桜を植樹。

翌年には会津出身婦女子に対し、阿弥陀寺に墓田購入の寄付を募り、自らも若松外発起人の総代となって安田銀行に口座を開き、二円五十銭を寄付している。

1915年(大正4年)9月28日に藤田五郎が死去。
時尾は1925年に死去(享年75)
墓は夫とともに会津の阿弥陀寺にある。

現在でも、藤田家の子孫の方は東京などにお住まいだ。

高木時尾の弟、高木五郎(高木盛之輔)は戦後、猪苗代から東京に転送幽居されたが、西南の役では山川大蔵隊に属して従軍。
後に司法官となり、根室・甲府・山形などの地方裁判所検事正を歴任し、従四位勲四等。
福島市に閉居し、享年66歳。

(参考文献)  ウィキペディア、NHK大河ドラマ、福島県観光交流局

斎藤一 (1) 新選組の中でも腕の立つ剣士



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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