山本八重(新島八重)~幕末のジャンヌ・ダルク


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 山本八重は、会津藩士・山本権八・佐久(さく)夫妻の子として1845年12月1日に生まれたが、戊辰戦争の渦に巻き込まれることになった。兄は山本覚馬
 父・山本権八は、会津藩砲術指南役で元の名は永岡繁之助。会津藩の砲術家・山本佐兵衛のひとり娘・佐久と結婚し山本家の婿養子となり、後に権八と改名していた。
 山本権八・佐久は6人の子供を設けたが健康に育ったのは長男の山本覚馬と、5人目の山本八重、6人目の山本三郎だけだった。
 山本家の祖は、武田信玄の軍師「山本勘助」とされている。


 
 山本八重は幼少期から非常に活発で、男まさりな性格だった山本八重。
 近所には高木時尾日向ユキといった幼馴なじみと共に会津武士の娘として育った。
 山本八重は裁縫よりも家芸の砲術に興味を示し、13歳の時に四斗俵を肩に乗せ、何度も上げ下げするような男まさりの力持ちであったと言う。特に17歳年上になる実兄の山本覚馬(かくま)からは洋式砲術の操作法を学んだ。
 兄・山本覚馬は9歳で藩校・日新館に入学し才能をいかんなく発揮。成績は常に優秀だった。24歳の時には馬・槍・刀の奥儀を極めるほど武芸に優れ、藩主より賞も与えられていた。
 ペリー提督黒船が浦賀沖に出現し、時代は開国へと向かい始めた1853年には会津藩江戸藩邸勤番として江戸にも留学しており、佐久間象山勝海舟、そのほか各藩の優秀な人材に接触している。
 会津に帰ってくると、兄・山本覚馬は藩校日新館の教授に任命され、蘭学所を日新館内に開設。軍事取調兼大砲取頭になるという大出世をし、さらには京都在勤を命じられた。

 1864年、禁門の変では兄・山本覚馬は蛤門を守備し大激戦を展開。会津藩主・松平容保がその戦功を賞し公用人に任じたことにより、幕府や諸藩の名士らと関わる機会に恵まれ、その後の活躍に繋がった。しかし、兄・山本覚馬はこの頃から急に目を患うようになり、物が良く見えなくなったようだ。

 1865年頃、18歳~19歳になった八重は、但馬出石藩出身で藩校日新館・教授(洋学者)の川﨑尚之助と結婚。
 川﨑尚之助は但馬出石藩医家の生まれで、蘭学と舎密術(理化学)を修めた、有能な洋学者。川﨑尚之助は会津藩校日新館に蘭学所が設置されたことを知り、山本八重の兄・山本覚馬を訪ねていた。山本覚馬が川﨑尚之助の才能を見抜き仕官を薦め、川﨑尚之助がそれに応じて教授を務めることになったのだ。その縁で山本家に寄宿するようになり、のちに山本八重と結婚することになった。

 1867年大政奉還、1868年1月、鳥羽伏見の戦いの際、兄・山本覚馬は目が良く見えなかった為、京都に潜んでいたが、混乱に乗じて蹴上から大津に逃れようとしたところ薩摩藩兵に捕えられる。この時、会津の山本家には、四条河原で処刑されたと伝えられた模様だ。
 また、弟・山本弟三郎も鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、淀で西軍の銃撃を受け負傷。紀州から海路で江戸へ逃れるも、芝新銀座の会津藩邸で死去。遺髪と形見の袴は会津へ届けられ、山本八重はのちにこの袴をはいて籠城戦に臨むこととなる。
 

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 西郷頼母佐川官兵衛などは戦の前に会津の軍制改革を行う。そして、勢いに乗る新政府軍がいよいよ会津にまで迫る結果となった。
 23歳になった八重も、1868年8月23日、腰に刀を帯び、7連発のスペンサー銃を持って、母の山本咲、兄の妻・山本うらと、その子・山本みねと共に、頭上をかすめる銃弾を避けながら、三の丸から鶴ヶ城に入城。
 高木時尾に手伝ってもらい髪を断ち、弟・山本三郎の形見の袴を着て男装した八重の姿に、川﨑尚之助は最初驚愕するも、一緒に籠城戦を戦ったようだ。母・山本佐久も、山本八重と共に鶴ヶ城にて籠城している。
 砲術の心得のある八重は、藩兵とともに銃撃に参加、夜襲にも加わったり、大砲隊の指揮を取るなど川﨑尚之助を助け、降伏までの30日間籠城した。
 9月14日、新政府軍が会津若松城に向けて砲弾の一斉射撃を開始。その翌日、山本八重子は黒金門(鉄門)の御座所にて、藩主・松平容保らに砲弾の構造について説明している。
 飯盛山で自刃したことで知られる白虎隊の伊東悌次郎に鉄砲指南したのは、銃術に心得のあった山本八重であり、ご承知のとおり、この場面は、白虎隊を描く映画やドラマでも名シーンとして度々登場する。
 伊東悌次郎は15歳であり、16歳~17歳で編成される白虎隊に入れなかったが、年齢を偽って入隊したとも伝わる。

 夫・川﨑尚之助とは会津若松城籠城戦の後に離婚したが、戦闘のあと川﨑尚之助は行方不明になったようだ。(別説では、篭城の前に、離別ともある。他の会津藩士同様に青森に行ったとも、明治初期は仙台に共に行ったとも、詳細は不明。) 
 離婚の理由として「八重が他藩の尚之助を籠城戦に巻き込まないため」と考えられていたが、川﨑尚之助がすでに会津藩士であったと確認できる資料が発見されるなどし、その謎は不明である。

 会津戦争では、父・山本権八は50歳以上の藩士で編成される「玄武士中隊」に所属し奮戦。しかし、鶴ヶ城の南、一ノ堰の戦いで戦死。享年61歳。
 山本八重は会津藩降伏の際、城を去る前夜の夜12時頃、三の丸雑物庫の城壁に月明りを頼りに下記の歌をかんざしで刻んだ・・。
 「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」
 
 また、降伏の使者が城門を出てゆくさまを想い出し、八重は「当日の事を考えると残念で、今でも腕を扼したくなります」とのちに語っている。
 当時、会津若松城に籠城した婦女は、照姫を中心に約600名いたが、山本八重のように、鉄砲・砲術と言う最新兵器を駆使して戦った女性はいなかっただろう。
 山本八重は、戦闘がない時間には負傷者の看護などをしつつ、敵が近づくと、家芸であった砲術をいかんなく発揮し、会津・鶴ヶ城籠城戦にてスペンサー銃を持って奮戦。
 女性でありながら、最新兵器にて勇敢に政府軍と戦ったことから、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

 会津戦争後の山本八重は、藩士謹慎地の猪苗代へと向かったが、女性であるひとから追い返されたといい、その後、自宅を失った山本家の女性たちや、山本覚馬の妻・山本うらと、子供の山本みね らは、住まいを失い、奉公人だった者の家で世話になったようで、青森には行かず、会津の山村で生活していた模様。
 1870年(明治3年)11月ごろ、山本八重ら家族は、仙台に住む米沢藩士・内藤新一郎の元へ出稼ぎに行っているので、生活は苦しかったのであろう。
 この内藤新一郎は米沢藩士だったが、山本家で砲術を学んでおり、会津戦争の際、山本八重らが若松城へ入城する日まで山本家に宿泊していた。
 
 会津の新島八重らには、「山本覚馬は、京都の蹴上から大津ヘ向かう途中に薩摩軍に捕らえられ、四条河原で処刑された」と伝わっていたが、山本覚馬は、実は、薩摩軍に捕らえられ、獄中にあった。
 山本覚馬は、獄中にて起草した「管見(かんけん)」と題する政治・経済・教育・衛生・衣食住・貿易諸般にわたる経世論が。薩摩藩の用人の眼にとまり、幽閉されている身ながら厚遇され、その後、なんと釈放された。この「管見」は明治政府にも認められ、京都の施政を任せられる要因となった。日本で最初の小学校や科学研究所、勧業大博覧会などは、この山本覚馬の知力によるものである。

 1869年、実兄・山本覚馬は京都府の顧問に就任するも、会津の山本八重らとは、会津の山本家の消息も不明で戦後の混乱もあり、連絡が取れなかったようだ。
 明治4年(1871年)、会津の山本八重らに、兄・山本覚馬が存命であることが伝わり、26歳の山本八重は京都府顧問の兄・山本覚馬を頼って、母・佐久、姪の峯と共に家族で上洛する。
 しかし、山本覚馬の妻・山本うらは会津を去ることを拒み、事実上の離縁となった。
 この頃、山本覚馬は目に続いて今度は足も不自由になる。
 
 山本八重は兄・山本覚馬の影響で英語を学ぶようになり、洋髪洋装の女性となった。
 1872年、山本覚馬の推薦により新英学校女紅場(京都女紅場、後の京都府立第一高女で現在の鴨沂高校)の権舎長・教導試補となり、礼法や養蚕を教えた。
 この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代・千宗室(円能斎)の母で、茶道も親しむようになった。その一方で、男勝りな山本八重は、経営難になった女学校の補助金を増やすよう、度々、京都府知事・槇村正直に直訴。そのため、世間より「烈婦」と評されたようだ。

 1873年に開催された京都博覧会において、初めて外国人の入京が認められた際には、山本八重が英訳して、英文の「京都名所案内」が刊行されている。

新島襄との再婚

 ここで少し、山本八重の再婚相手となる「新島襄」に触れておきたい。
 新島襄は21歳の時にアメリカへ密航。アメリカのアンドーヴァー神学校を卒業し、アメリカで学び精神や思想にふれるうちに、自分の理想とする国はアメリカであると確信。アメリカで勉強し、精神や思想にふれるうちに、蒸気機関車や電信電話の技術など、西洋文明の表面的なところだけではなく、その文明が成立した根幹であるキリスト教を知ることのほうがもっと重要だと考えるようになった。

 そして、アメリカの文明を築いた精神を日本に伝えることが自分の使命だと感じ、宗教者ならびに教育者として生きることを心に決め、新島襄は明治7年(1874年)、日本へ帰国しキリスト教主義大学の設立しようと画策。
 当初大阪で、キリスト学校設立を目指したが、認められず断念。観光で京都を訪れた新島襄は、京都府知事・槇村正直、京都府顧問・山本覚馬と出会い、京都にキリスト教大学を設立する事を思いつく。
 山本八重の兄・山本覚馬は、自分で所有していた旧薩摩藩邸敷地を破格の値段で譲渡し、同志社大学設立に尽力した。
 1875年に入ると、山本八重も三条大橋詰の旅館「目貫屋」に逗留している新島襄に聖書を習いにゆくようになる。
 しばらく結婚はしないと考えていた新島襄だったが、健康が思わしくなくなり、結婚を考えるようになり、明治8年(1875年)10月に新島襄と山本八重は婚約。
 キリスト教を理解して、まわりに流されない強い意志を持ち、自ら進んで行動する山本八重は、新島襄にとってまさに理想の女性だったようだ。
 しかし、キリスト教主義の学校建設を阻止しようと、仏教各宗派は大反対を唱え、京都の僧侶・神官たちが連日のように抗議。京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどしたため、京都府は新島襄と山本八重の婚約直後、山本八重を女紅場から解雇した。
 そんな中、新島襄は官許・同志社英学校を開校し初代社長に就任。開校時の教員は新島襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人であった。八重も女紅場での経験を生かし、同志社の運営を助けた。
 翌・明治9年(1876年)1月2日に新島襄と山本八重は、J.D.デイヴィスから京都におけるプロテスタント最初の洗礼を受けて、翌日1月3日に結婚。京都では初めてとなる日本人同士によるキリスト教式の結婚式であったとされる。襄32歳、八重30歳。のちに山本八重の母・山本佐久も洗礼を受けている。
 以後、新島八重は、新島襄の生存中の約15年間、内助を尽くし、同志社女学校で作法・礼儀などを教えた。新島夫妻は互いに尊重しあい夫婦仲がとても良かったと言う。母・山本佐久も洗礼を受け、明治11年に同志社女子学校が開設されたときから、明治16年まで寮の舎監を務めるなど協力した。
 しかし、明治維新と言えども、まだ、女性は男性に従うことが、当たり前とされた時代であり、豪放で周囲からは勝手気ままに見える、男勝りな新島八重の生き方は世間からは「天下の悪妻」とも言われた。
 男女平等を望む新島八重は、西洋帰りの夫を『ジョー』と呼び捨てにしたり、欧米流の礼儀作法として新島襄のレディファーストを、快く受ける新島八重だったが、自動車に夫より妻が先に乗る姿を見られて、世間からは良く思われなかったようだ。

 新島八重は、同志社英学校においては戊辰戦争の際に敵となっていた薩長出身の学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄を新島襄が許しても、家から追い出したりと、最新の欧米感覚を身に着けながらも、日本の武家の誇りと、武士道にこだわり、周囲と軋轢を生むこともあったようだ。しかし、晩年まで夫婦仲はとても良く、新島襄はアメリカの友人への手紙の中で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」とも記載している。
 新島襄は明治17年から翌年にかけての欧米旅行中、アルプス登山中に心臓発作を起したときのことを振り返って「自分はそのとき非常に苦しんだ。諸君のことを思い妻のことを思い……」と、のち生徒たちに語っている。
 晩年の新島襄は、自分の死が近いことを悟ると、八重が生活に困らないようにと吉野の山林地主・土倉庄三郎に300円の出資をしてマッチ樹木の株主となり、その利益を妻に配分してほしいと託してもいる。
 新島八重も結婚生活のうち、約三分の一を激務の中も療養する新島襄に付添って、北海道鎌倉、伊香保、神戸など行動を共にし献身的に看病している。

 同志社大学設立運動中に、新島襄は1890年(明治23年)心臓疾患を悪化させて群馬・前橋で倒れ、静養先の神奈川県・大磯の旅館百足屋(むかでや)で、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して、明治23年(1890年)1月23日に死去。死因は急性腹膜炎。胃腸カタルから腹膜炎となっていた。享年46歳。
 新島襄は死ぬ間際でも太っていた新島八重の体重を心配しており、医師に痩せさせる方法を聞いている。
 そんな新島襄も、枕として左手を差し出した新島八重に、「狼狽するなかれ、グッドバイ、またあわん」と最後のことばを残して永眠したと言う。
 同年1月27日の13時より、同志社前のチャペルで葬儀が営まれ、京都東山・若王子山頂に葬られた。墓碑銘は勝海舟の筆。
 この新島襄の臨終の床では、徳富蘇峰に過去の非礼を詫びられ、新島八重は和解している。

 新島襄の生前、1887年(明治20年)7月14日に、供に北海道旅行した際、会津藩での幼馴なじみだった日向ユキと山本八重は約20年振りの再会を果たしている。

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 1887年(明治20年)に日本赤十字社が設立されていたが、ほかに何か社会に貢献できないかを考えた新島八重は、新島襄永眠の年(1890年)に日本赤十字社の正社員となる。
 この「看護」は、会津戦争の際、城内にて婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の日本の看護制度の先駆けであったと言う経験も生かされていたのだろう。
 1893年、京都に日赤篤志看護婦人会が設立されると、新島八重はいち早く会員として参加。篤志看護婦人会とは、皇族や華族の夫人が参加して組織された会で、今で言うボランティアナース=無償奉仕だ。日本赤十字社も引き続け兼務していたようである。
 新島襄との間に子供はおらず、更にこの時の新島家には新島襄以外に男子がいなかったため、養子を迎えたが、その養子とも疎遠となった。また、同志社を支えた新島襄の関係者とも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。
 1894年、日清戦争では篤志看護婦(とくしかんごふ)として、20数名の篤志婦人会の会員を率いて広島に駈けつけ、4カ月間傷病兵の看護に従事し、その功績が認められ、明治政府から「勲7等宝冠章」(1888年に創設された女性のための勲章)を授与。
 さらに1905年、58歳になっていたが日露戦争の篤志看護婦として大阪で教護活動を指揮。勲6等宝冠章を授けられた。これらの授与は皇族の女性は別として、民間女性が始めて勲章を授けられたケースであり、八重の生涯にわたる社会福祉活動を称え「日本のナイチンゲール」と呼ぶ人もいる。

 晩年には、雨などに濡れている女学生を見ると無言で傘を差し出す姿なども見られたようだ。
 また、女紅場時代に知りあった円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に「女性向けの茶道教室」を開いて自活し、茶道を女性の職業として自ら開拓し、裏千家流を広めることにも貢献した。

 兄・山本覚馬は幕末の偉人たちとの交流も広く、目や足が不自由になりながらも、京都で役職を歴任し、京都の近代化に貢献し続けたが、明治25年(1892年)、65歳で没す。この偉大な兄がいなかったら、八重の生涯は全く違ったのかも知れない。
 1896年(明治29年)には河原町の自宅にて母・山本佐久が永眠。86歳。
 母・山本佐久は気丈で聡明な母親だったようで、山本覚馬が後年になっても「自分はとても母の聡明さにはおよばない」と語っていたほど。会津若松城下に天然痘が大流行したときには、まだ一般的でなかった種痘の必要性を説いてまわるなどし、先進的な思想の持ち主だったとされる。

 1924年に80歳になった新島八重は、皇后陛下の同志社女学校行啓の際して、単独謁見を許され、お言葉を賜っている。 
 新島八重はその後、昭和3年(1928年)には昭和天皇の即位大礼の際には、銀杯を下賜された。
 晩年は建仁寺和尚黙雷と茶事を楽しむ毎日だったようで、和尚から袈裟を受けたため、世間では仏教に帰依したという噂がまことしやかにささやかれたが、終生敬慶なクリスチャンとして神と人に対する奉仕につくした。

 1931年からは胆嚢を患ったが、1932年2月には米寿祝賀晩餐会が開催されている。
 新島八重は遺産のすべてを同志社に寄付し、1932年6月14日に寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて急性胆のう炎の為、死去。86歳にて生涯を終える。
 栄光館で同志社葬が営まれ4000人もの参列者があった。若王子にある同志社墓地の新島襄の傍らに葬られた。墓碑銘は徳富蘇峰の筆。

籠城戦の回想

 山本八重は後年の回顧談の中で籠城の事を次のように述べている。

 「敵の総攻撃は九月十四日の早朝六時に始まり、毎日夕の六時頃迄は実に凄まじ い勢ひで砲撃しました。無論小銃弾も三方面より非常に来ましたが、大砲の音に消 されて少しも聞えません、只バッバラッと霰(あられ)の如く絶えず来て居ました。 それに頭上で爆裂するかと思ふと、却下に砂塵を揚げる、瓦は落つる、石は跳ぶ、 城中は全然濛々たる硝煙で、殆んど噎(むせ)ぶ様な有様、然し誰一人逡巡ふもの もなく、寧ろ反って勇気百倍、子供等は湿れ莚(むしろ)を以て縦横に馳せ廻って、 焼弾を消しては御握りと交換して貰ふ。婦人は弾薬の補充に奔走し或は傷者の運搬 救護等、其多困多難の有様はなんとも話になりません。妾(わらわ)も一寸の暇を 見て、有賀千代子さんと共に握飯を盆に盛り大書院小書院の病室へ運搬中、轟然一 発却下に破裂し、砂塵濛々として眼も口もあけず、呼吸も出来ず、暫時佇み漸く目 を拭ふて見れば、千代子さんも煙りの裡に立っては居るが其顔は全然土人形の怪物 そっくり、これには妾も可笑しくて抱腹絶倒をしました。然し千代子さんも妾の顔 を指さして笑ひこけて居ました。御握はと見ると又驚きました。全く蟻塚をそっく り盆に載せた様に塵一杯になって居たので、これには落胆しました」

 「それで籠城婦人は何れも、多少なりと怪我をして他の厄介になる様では、男子 の戦闘力を殺ぐ様になるから、其時には自刃をしやうといふ覚悟で、脇差か懐剣を 持たぬ人はありません。妾(わらわ)も介錯する人をもたのんで居ました。こんな 訳で仕度も身軽にし帯なども決して解けぬ様、細紐にて緊かり結んで居ました。そ んな風に何れも今日か明日か、最後の時には見事に、死際を立派にしやうと決心し て居ましたから、樹の枝にかかって死んだ婦人があるなどといふことは大変なまち がひと思ひます。妄(みだり)に文飾するから真相を脱するのであります。御承知 の如く何れの家庭にも、戦死戦傷者を出して居ます。妾の弟の三郎(二十一才)は 正月三日伏見で、父の権八(六十一才)は九月十七日一ノ堰にて戦死をして居ます。 籠城中の婦人は大概こんな境遇の人ばかりであるから、何れも死花を咲かせやうと 決心して居ったのであります」

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川﨑尚之助との離婚理由

 会津での戦いの最中、山本八重の夫・川﨑尚之助は行方不明となったとさける。
 以前は「藩籍を持たないために、開城に先立って城外に去っていた。」あるいは「追い出された」とも考えられていたが、それを証明する資料は発見されていないため、現在は「行方不明になった」という表現が使われている。
 その後は、江戸に行き、塾で教鞭をとったという説が有力だったが、これも詳細不明。
 会津戦争後、困窮する山本家が仙台に一家揃って出稼ぎで移住した際の戸籍に、山本八重は川﨑尚之助の妻と言う記載があるとも言う。
 2011年12月に札幌市の北海道立文書館で、会津藩の公文書など40点が発見され、他の会津藩士たちと共に川﨑尚之助も北海道の斗南に行ったという説が浮上した。
 それは、川﨑尚之助が斗南藩の貧しさを何とか救おうと奮闘する記録が、そこに記されていたからだ。
 しかし、 離婚に関する理由は謎が多い。

 山本八重の兄・山本覚馬が川﨑尚之助を何度も「会津藩士」へと願っていることから、山本八重と結婚させる事で、会津藩士になることを画策した経緯があった?ことも考えられる。
 1つ言える事は、多くの会津藩士が鶴ヶ城開城の際に、妻子と離婚した。新政府軍に負け「逆賊」と言う汚名を着せられ、将来の夢も希望も無い会津藩士として、妻や子を開放し、自由の身にさせると言う「愛情」があったのではと、私は感じずにいられない。
 実際に多くの妻たちが自由の身となり、裕福な商家などと再婚できていた。
 山本八重自身も、離婚歴を隠そうとしたことは1度も無いようで、川﨑尚之助との結婚は失敗だったとは思っていない可能性が高い。

 (参考文献)  同志社女子大学、学校法人同志社、ウィキペディア、戊辰戦争百話、あらすじと犯人のネタバレ、NHK大河ドラマ、福島県観光交流局

 

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