黒船来航の黒船とは? 最新鋭の蒸気機関を搭載したアメリカの帆船軍艦


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 マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻が、1853年(嘉永6年)6月3日、江戸湾の浦賀沖に姿を現した。
 乗組員は4隻で約1000名、旗艦・サスケハナにペリー提督が乗船していた。

 船体は防水や腐食防止のため「黒いタール」で塗られており、もくもくと煙を吐いて海面を進むと言う初めて見た艦影は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであり、その黒船は日本人を驚愕させた。
 船に搭載していたカノン砲と榴弾砲は、野戦向きの最新式で、射程距離も日本が所有していた大砲より長がかった。

 事前に役所には通告していたが、浦賀でじっとしていた訳では無く、江戸湾深く品川沖まで進入したり、観音崎沖では測量したりしては浦賀に戻るなどし、アメリカ独立記念日に祝砲を撃ったり、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射したので、事前通告など知らない庶民は驚き、江戸は大混乱となった。
 その後、空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられる。

 浦賀は吉田松陰など見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで寄せて上船を試みる者もあったが、江戸幕府から武士や町人に対して「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾が砲撃されるのではとの噂も立ち、次第に不安が広がって行った。

 江戸幕府は、船上のペリー提督に対して、まず浦賀奉行所与力・中島三郎助を派遣。
 ペリー提督の渡航意図が、徳川将軍にアメリカ合衆国大統領の親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー提督側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして、親書を簡単には預けなかった。
 続いて与力の香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、上司と相談するために4日の猶予をと頼んだ。
 しかし、3日以内に親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになると、ペリー提督は脅しをかけた。

 この時、第12代将軍・徳川家慶は病床に伏せており、老中首座・阿部正弘は、1853年6月6日に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、6月9日にペリー提督一行の久里浜上陸を許可した。

 下曽根信敦が部隊を率いて警備の下、浦賀奉行・戸田氏栄と、井戸弘道がペリー提督と会見し、開国を促す大統領フィルモアの親書と提督の信任状、覚書などを手渡した。

  しかし、江戸幕府は「将軍が病気であってすぐには開国を決定できない」として、返答に1年の猶予を要求したため、ペリー提督は「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げて、艦隊は6月12日に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流してイギリスの植民地である香港へ帰った。

 ペリー艦隊退去からわずか10日後の6月22日、将軍・徳川家慶が死去。
 将軍後継者の徳川家定は病弱で国政を担えず、老中にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座・阿部正弘はアメリカからの開国要求に頭を悩ませた。
 
 7月1日、阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を求めたが、これは徳川幕府始まって以来、初めての事で、国政への発言権の無かった外様大名は喜んだが、名案は無かった。
 その為、以降は国政を幕府単独ではなく「合議制」で決定して行こうと「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として徳川幕府の権威を下げることになった。
 また、アメリカと戦闘状態になった時に備えて、江戸湾の防備を固める為、砲台を設置するなどの軍備増強も行い、禁止されていた諸藩の大船建造も、解禁された。

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4隻のペリー艦隊

 ペリー提督率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦は、下記の内訳。

■旗艦・サスケハナ(USS Susquehanna) 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工

 蒸気船・外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。
 装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門

 

■ミシシッピ (USS Mississippi)

 蒸気船・外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン
 装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門

■プリマス(USS Plymouth)

 帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン
 装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門

■サラトガ(USS Saratoga)

 帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン
 装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門

 日本人はこれらを「黒船」と呼んだが、来航した黒船4隻のうち蒸気船は2隻のみであった。
 ただし、蒸気機関もまだ不完全で、長い航海では石炭も大量に消費した為、風がある時には帆を張って進む「機帆船」であった。

黒船とは?

 そもそも「黒船」と外国船のことを呼ぶようになったのは、幕末よりもっと前の話で、日本とポルトガルが最初に接触した、戦国初期の1543年の時点で、キャラック船の事を日本では「黒船」と呼んでいた。
 このキャラック船は、防水の為、船体を黒色に塗っていた為で、長崎に来航する外国船すべてを「黒船」と呼ぶようになり、幕末に浦賀に来航したペリー提督艦隊のアメリカ軍艦4隻の蒸気船も「黒船」と呼ばれた。

実はもっと前にアメリカ軍艦は浦賀にやってきていた

 ペリー提督の黒船来航が、アメリカが初めて日本に来航したと思われがちだが、実は、黒船来航の7年前になる1846年7月20日、アメリカ海軍の戦列艦コロンバス(帆船2480トン、砲74門搭載、総員780名)および戦闘スループ艦ビンセンスの2隻を率いた、東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが浦賀に入港していた。これが、アメリカ軍艦の最初の日本寄港となった。
 これは、日本に行き、貿易をする気があるか確認し条約を結ぶように指令された「通商航海条約締結」と言う、実質的な開国要求で、長崎ではオランダと問題が発生する可能性があり、江戸にも近い浦賀を選んでいた。
 しかし、浦賀では直ちに日本の船に取り囲まれ、上陸も許可されず、浦賀奉行らは丁寧に対応したが、日本は鎖国していると交渉は断られ、7月29日、両艦は浦賀から出港し退去していた。
 これらの経緯を踏まえて、ペリー提督は、蒸気で動く最新鋭の軍艦を見せつけ、和平的にと言うよりは脅して開国を要求しようと考えたのだ。

 (参考) Wikipedia

 

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