中川宮朝彦親王(久邇宮朝彦親王) 八月十八日の政変における中心人物


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 中川宮朝彦親王(なかがわみやあさひこしんのう)、久邇宮朝彦親王は、伏見宮邦家親王の第四王子として1824年3月27日に生まれた。幼称は富宮。
 母は女房の鳥居小路信子。

 1836年に仁孝天皇の養子となり、1838年には奈良興福寺塔頭・一乗院の門主にもなった。

 1852年、青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の門主にもなっている。

 1858年、大老・井伊直弼日米修好通商条約を結ぶと反対し、将軍・徳川家定の後継者問題でも徳川慶篤、松平慶永、島津斉彬、山内豊信らと共に一橋慶喜を支持した。
 1859年、南紀派の老中・間部詮勝京都に赴くと、安政の大獄によって「隠居永蟄居」となり、相国寺塔頭の桂芳軒にて隠居した。

 1862年に赦免されて還俗すると、国事御用掛として朝政に参画し、1863年8月27日に僧侶から還俗し、中川宮の名乗った。家禄は1500石。

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 そして、京都守護職である会津藩主・松平容保や、薩摩藩・西郷隆盛らと手を結び、孝明天皇から内意も引き出して、長州藩を京都から駆逐する八月十八日の政変を画策。

 その結果、長州藩の志士からは恨まれ中川宮と松平容保は命を狙われることなったが、1864年6月5日、新選組近藤勇らによる池田屋事件にて攘夷派の宮部鼎蔵吉田稔麿などを一網打尽し、7月19日の禁門の変に繋がっている。

 しかし、2度の長州征伐も失敗し、第14代将軍・徳川家茂や孝明天皇が崩御すると、朝廷では有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美岩倉具視倒幕派公卿が復権。
 1868年、中川宮は広島藩預かりとなり失脚した。

 その後、明治5年(1872年)に許されて、本籍の伏見宮に復籍し、明治8年には新しい宮家・久邇宮を創設するも、新政府にて活躍する事はなく、公家として伊勢神宮祭主を務めるなどした。
 近衛忠熙と同じく、東京に移住しなかった公家として知られる。

 女房は、泉亭靜枝子、泉萬喜子、原田光枝子、寺尾宇多子、角田須賀子と複数おり、還俗してから18人の子を設けている。

 明治24年(1891年)10月29日死去。68歳。

三条実美  尊王攘夷派の公家で明治天皇を補佐した太政大臣
島津斉彬とは~西郷隆盛・大久保利通、そして島津久光と薩摩藩での関係をわかりやすく

 

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