小栗上野介~近代日本の礎を築いた武士

小栗上野介

江戸末期、勝海舟のライバル的存在として肩を並べ数々の功績を残した幕臣がいた。
その名を小栗上野介・忠順という。
しかし、幕末から明治維新後にかけて彼が残した偉大な功績を知る人は後世においてもそう多くはないだろう。
一方、江戸城無血開城という偉業を成し遂げた勝海舟のことは英雄として現代に至るまでその名を知らぬ者はいないと言っても過言ではない。
破綻寸前の幕府財政を支え、日本産業の近代化を推し進めた小栗上野介は「明治の父」或いは「日本工業化の父」とも称されるほどの偉人である。
ではなぜ例えて比べるならば、勝海舟の知名度と評価に対し小栗の知名度や評価はこれだけの開きがあるのであろうか。
もちろん、知る人ぞ知る人物であるのは確かであり、彼の功績を知らぬ人でもその名は聞いたことがあるという人もいるだろう。
だが、一般的な知名度や人気は圧倒的な差がある。
そこで今回は、小栗上野介の真の人物像と彼が残した偉大な功績に迫ってみたい。



小栗上野介-おぐり・こうずけのすけ-(忠順-ただまさ)
生誕/1827年7月16日(文政10年6月23日)死没/1868年5月27日(慶応4年閏4月6日)享年40歳
小栗忠高・くに子との間に産まれた剛太郎が後の小栗忠順(上野介)である。
幼少期の小栗は悪童と呼ばれるほど周囲を困らせていたという。
しかし、成長に伴い徐々にその才能を発揮していく。
14歳にして小栗は、播磨国林田藩・藩主、建部政醇に対し、これからの日本は造船技術の躍進と海外への進出が重要であると論じたという。
小栗は若き頃から西洋列強からの脅威などから日本を護り、日本を大国と渡り合えるような国にしなければならないという志を抱いていた。
後に小栗は建部政醇の娘である道子と結婚することとなる。

遣米使節団としての渡米

1853年(嘉永6年)鎖国していた日本・浦賀にペリー艦隊(アメリカ合衆国・東インド艦隊)が来航する。
いわゆる黒船来航である。
蒸気戦艦の圧倒的武力に抵抗する術は幕府にはなく、ペリー提督の一方的な要求に屈し1854年3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が締結され、下田(静岡県)と箱館(函館)が開港し、鎖国体制の終焉と開国を余儀なくされた。
さらに1858年7月29日(安政5年6月19日)には、日米修好通商条約が締結される。
その後、1860年(万延元年)日米修好通商条約の批准のため、小栗も遣米使節団としてアメリカに渡米することになった。
遣米使節団において当時33歳の若さだった小栗は遣米使節目付という監察の役割を担っていた。
使節団は正使に新見正興・副使に村垣範正・目付に小栗忠順を代表としてアメリカ船のポーハタン号に乗船し出発。
このとき護衛艦として咸臨丸も渡米に同行している。
艦長には勝海舟、乗船した顔ぶれには福沢諭吉もいた。
2ヶ月の航海を経て使節団一行はサンフランシスコに到着する。
このときの渡米で小栗はアメリカ各地を訪ね、その進んだ文明を目の当たりにすることとなる。
ビルが立ち並び、気球が空を飛び、蒸気機関車が走っているといった当時の日本では考えられない先進技術に圧倒されるのだった。
小栗は、ワシントンの造船所を訪れたとき、巨大な蒸気船を建造するための技術力の高さに驚愕する。
蒸気の力で動く製鉄機械や旋盤といったテクノロジーが整備され、そこからは次々と船体の基礎となる鉄骨や鉄板などの部品やネジが生み出されていくのだった。
このとき小栗は「わが国にも、このような施設を作りたい」とアメリカの新聞記者に語ったという。
アメリカでのこれらの経験が、後の日本の近代化を推し進める原動力となった。
そして小栗はその思いを胸に、造船所で生み出された一本のネジを大切に持ち帰ったのだった。
ちなみに勝海舟はこのときアメリカで滞在はしておらず、使節団がサンフランシスコに到着すると幕府の命令により咸臨丸で日本に帰っている。

フィラデルフィアでの交渉

渡米の目的は条約の批准であり、小栗もフィラデルフィアで行われた日米通行通商条約に定められている、通貨の交換比率の見直し交渉に臨んだ。
日本貨幣である小判とメキシコドルの交換比率が不平等であり、日本経済にとって不利であることを貨幣の分析実験をもとに、小栗はこの場でも臆することなく毅然とした姿勢で是正を要求した。
実際に日本ではその頃、日米和親条約締結に伴い西洋諸国との貿易により貨幣の交換が行われるようになっていた。
しかし、そのレートが日本にあまりにも不利であったために日本経済は混乱に陥っていた。
簡単にいえば日本の小判である金がドルにするとかなり安い値段で取引されているということである。
小栗はこの不平等を小判とドル金貨の分析を要求することで証明すことになる。
ところが、この交渉は結局合意には至らなかった。
使節団として同行していた勘定方組頭である森田清行が、遣米使節団には通貨の交換率変更を交渉する権限を、幕府からは与えられていないと引き留められたからです。
しかし、このときの小栗の姿勢はアメリカの人々に「ノーと言った日本人」として称賛され、新聞にも彼を絶賛する内容の記事が掲載された。

外国奉行就任

帰国した小栗は1860年(万延元年)、幕府の外国奉行に就任する。
そしてその翌年の1861年(文久元年)にロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に来航し、上陸して島を占領するという事件が起こる。
事件を知った幕府は小栗を対馬に派遣し事態収拾の任に当たらせた。
小栗はロシア軍と交渉し退去を要求する。
しかし、ロシア側はこの小栗の要求に対し、対馬は対馬府中藩の領土であり、交渉は藩主と行うと主張するのだった。
これに対し小栗も最終的にポサドニック号艦長ビリリョフと対馬藩主・宗義和との謁見はできないと回答する。
命運を一藩に委ねれば武力に屈し、ロシアの対馬居留を事実上認めさせてしまうことになるからである。
そこで小栗は江戸へ戻り老中や上層部に、対馬を幕府の直轄領とすること、折衝は正式にロシア領事を通してロシア本国への外交形式によって抗議を行うこと、そして国際世論へ訴えてイギリスに協力を求めるといったことを提言する。
しかし、幕府上層部にこの訴えは受け入れられず、小栗は外国奉行を辞することになる。
その後対馬のロシア軍も、イギリスの介入により退去することとなり事態は収束する。
このイギリス軍介入にはあの勝海舟が密かに動いていたと云われている。
老中・安藤信正にイギリス公使に対馬でのロシアの状況を伝えさせるように進言したのだ。
そうすることでイギリスは、ロシアが侵略の手を広げることを阻止する行動に出たということである。
その後、勘定奉行就任と上野介の賜名となる。
1862年(文久2年)小栗は幕府の命により勘定奉行に就任することとなった。
破綻した幕府の財政を立て直すために小栗に白羽の矢が立ったのだった。
このとき、小栗は「上野介」という官名を賜る。
この上野介という名は、あの忠臣蔵で有名な赤穂浪士に斬殺された吉良上野介と同じ名であることから、縁起が良くないということで周囲からは辞退してはどうかと諭されるも-例え惨殺されようとも国のために命を失うは男子の本懐-として小栗はその名を受け入れた。
勘定奉行に就任してからはその才能を発揮し、無駄の排除や経費の削減など幕府の財政改革を断行していった。



軍艦奉行就任と造船所の計画

1864(元治元年)小栗上野介は軍艦奉行に就任すると、かねてから胸に抱いていた造船所の建設を本格的に計画し始める。
日本が西洋列強と対抗していくには、他国に頼るのではなく、自国の造船所を持たなくてはならないという信念があったからだ。
しかし当時の日本人には造船所を建設するだけの技術も知識も持ち合わせている者はいなかった。
小栗は当初、アメリカの圧倒的な先進技術を目の当たりにした経験からアメリカ人技術者の招聘を考えていたが、当時のアメリカは南北戦争により国力が疲弊し他国を支援する余裕がなかった。
そこで小栗はフランスとの交渉に着手し、日本での造船所支援の約束合意に成功する。
ところが幕府役人からはこの造船所建設に反発する者が続出した。
財政難のこの時期に、さらなる多額の借金をしてまでの造船所建設に異論を唱える者が大半を占めていたのだ。
船が必要ならば、その分だけ他国から買えば良い。
そうすれば造船所を作るよりも出費は少なくて済むということだ。
そこで小栗は反対論者に「確かに軍艦だけであれば外国から買えば済む。
だが、軍艦を有する以上は破損は有中の事なれば、これを修復するの所なかるべからず」と言を発した。
要するに軍艦は買えば手に入る。
しかし、物は必ず壊れるし軍艦は戦う船である以上、被害は必ずある。
その船を修復する術がないのでは、破損したらまた新しい船を買う以外に方法はない。
それこそ財政を維持するどころかさらに圧迫する一方で改善することはできない。
そして他国の脅威にに対抗する力も持つことはできない。ということである。
もはや、この小栗の言に反論する者はいなかった。
かくして1865年(慶応元年11月15日)横須賀に造船所建設が開始された。
1865年(慶応元年)横須賀製鉄所として開設された。
最初に設置されたスチームハンマーはマザーマシン(母なる機械)と呼ばれ造船所を完成させるための資材や部品を生み出していった。
その後も造船所完成となる前に明治維新によって幕府は滅びたのだが、1868年(慶応4年/明治元年)9月、明治新政府は横須賀製鉄所を接収し、1871年(明治4年)に完成。
同年4月9日、横須賀造船所と改称された。
1865年の横須賀製鉄所とともに稼働を始めた母なるマシンスチームハンマーはその後、平成9年まで130年に渡って稼働し続けさまざまな部品や資材を生み出したのだった。

小栗上野介の最期

1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還が行われた後、新政府軍は徳川慶喜を追って江戸へ進軍してくる。
これに対し小栗は新政府への徹底抗戦を主張し、起死回生の策を進言する。
それは徳川方にある最新鋭の軍艦を駆使し、その艦隊を駿河湾に配置して進軍してくる新政府軍を海から砲撃し分断する。
そのうえで退路を断たれた先行隊を江戸に誘き寄せ殲滅し、後方の隊も艦砲射撃によって撃破するというものだ。
それだけの近代兵器を保有していたのも事実であった。
しかし、徳川慶喜はこの案を受け入れず、勝海舟が唱えていた恭順の道を選んだ。
後にこの小栗が提案した策を聞いた新政府軍の大村益次郎は「もし、その策が実行されていれば、我々は全滅していたであろう」と言い残している。
そして勘定奉行を解任された小栗に、戦う理由は残ってはいなかった。
戦いを諦めない徳川の家臣に「主君である慶喜様にその意思がない以上、それに従うしかない」そう言い残し小栗は江戸を去った。
そして、小栗はそのお腹に我が子を宿した妻道子と共に現在の群馬県・権田村にある東善寺に身を寄せることになる。
そこで小栗は若者たちに教育を施すための塾を開いたり、水路を整備したりして静かな余生を送ろうとしていた。
だが新政府小栗に出頭を命じる。
幕府の御用金を持ちだし新政府に対して戦争を企てているという噂が持ち上がっていたためだ。
それが現代に至る徳川埋蔵金の伝説の基となっている。
しかしそれは根も葉もないことであった。
それでも小栗は妻に密かにこの地を逃れるように諭し、新政府に出頭した。
そして、1868年(慶応4年閏4月6日)取り調べもされねまま斬首となった。
小栗は斬首直前「何か言い残すことはないか」の問いに「私自身は何もない、しかし逃がした母と妻と息子の許嫁には寛大なる処置を願いたい」と言い残している。



道子と従者は身重の身体で山道を逃避行し、会津に入り松平容保によって会津藩の野戦病院に無事収容された。
6月には女児を出産し国子と名付けられた。

後の日露戦争・日本海海戦で日本の艦隊はロシアのバルチック艦隊に大勝利を収めることとなる。
日本海軍を率いた東郷平八郎はこう述べた。
「小栗上野介が横須賀造船所を建設してくれたことが、今回の海戦でどれほどに役に立ったかしれない」と。

(寄稿)探偵N

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