勝海舟と江戸城無血開城の解説 真相を探る

勝海舟



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江戸城無血開城」という江戸の大混乱を防ぎ、戦火が上がれば失うであろう、民衆・兵士たちの尊き人命を救い、また、諸外国からの占領という危機から日本国家を護ることとなった偉業を成し遂げた、幕臣・勝海舟の功績。そして勝が成し得た「江戸城無血開城」について、その真相に迫りたい。

勝海舟ーかつ・かいしゅうー 幼名・麟太郎ーりんたろうー 諱・義邦ーよしくにー

生誕1823年/文政6年1月19日、死没1899年/明治32年1月19日。幕末の徳川幕府に仕えた幕臣で、山岡鉄舟や髙橋泥舟を含めたこの三人は、幕末の三舟と呼ばれている。1855年/安政2年1月、長崎海軍伝習所に入門した勝は、その後5年に渡り赴任した長崎で勉学に取り組む。勝は長崎に赴任している当時の1858年/安政5年3月、そして5月にも薩摩を訪れ、薩摩藩主の島津斉彬と会い、知遇を得ている。勝にとって島津斉彬との交流が、その後の行動や思想に影響を与えることとなったといってもいいだろう。


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1860年/万延元年に、勝は希望していた渡米を果たす。このとき勝は、アメリカの共和政治を目の当たりにする。当時の幕府体制による身分や世襲によって権力者を擁立するのではなく、選挙によって指導者を選ぶというアメリカの政治の在り方に驚き、共感したという。そして国民と政府が一つとなり得る、このような政治体制こそが、これからの日本にも不可欠であり、日本国家を強固なものにするという思想がこの頃生まれた。

勝海舟と西郷隆盛の初対談

1864年/元治元年7月、京都にて幕府と長州が武力衝突する「禁門の変」という内乱が勃発する。幕府軍は薩摩藩の協力を得て、長州藩に辛うじて勝利を収めることができた。しかし、この戦いは薩摩藩による助力が大きく、しかも京都を焦土とするまでに苦戦を強いられてしまった幕府の衰退は明らかであり、もはや国家を統治するだけの力がないことを、世に知らしめる結果となってしまう。しかもその頃、幕府は西洋列強から不平等な通商条約を締結させられるなどの圧力に屈してしまっている状況に追い込まれており、このことも外国からの侵略を阻止しなければならないという、いわゆる攘夷派の反発や、諸藩の不満を高める原因となっていった。

この情勢下「禁門の変」から2ヶ月後、勝海舟は後に「江戸城無血開城」を主張した、歴史に残る和平交渉を行うこととなる西郷隆盛と、1864年/元治元年9月11日、大阪にて初の出会いを果たす。これが国家の命運を揺るがすほどの運命の出会いとなったことは言うまでもない。当時幕府と協力している立場にあった薩摩の西郷は、長州藩の処分や西洋列強からの外圧について、幕府の方針を探る目的から、幕府軍艦奉行であった勝を訪ねた。この時、このタイミングでの二人の会談がなければ、1868年/明治元年(慶応4年)3月に成立した和平交渉は成り立たなかった可能性もある。

渡米した際にアメリカでみた共和政治こそ、理想の国家体制であるという思想を抱いた勝は、幕府や藩という枠を越えた、幕府と諸藩連合による挙国一致した新しい体制こそ西洋列強といった、外国との交渉も対等に渡り合えるという新体制の国家構想を西郷に打ち明ける。西郷は勝のこの国家構想に感銘を受け、自らその構想実現に動き出すこととなる。そして勝もまた西郷隆盛という人物に感服する。それほどこの時の出会いは、お互いに衝撃を与え、敬服し合えるものであった。しかし、風雲急を告げる動乱の時代は、この偉大な二人の英雄を、対立する立場へと導いていくのだった。

薩長同盟成立と第二次長州征討

勝海舟から衝撃的な国家構想を打ち明けられ、意気投合した勝と西郷隆盛であったが、その後、西郷は勝の思想である共和政実現のため、倒幕へ動き出すことになる。そして、勝と西郷の運命の対談から翌年の1866年/慶応2年1月、坂本龍馬の仲介により、幕府と対立していた長州と、幕府側にいた薩摩の同盟が結ばれたのである。世に云う「薩長同盟」の成立である。ここから倒幕の動きは一気に加速して行くこととなるが、皮肉にも「薩長同盟」の立役者であり、幕末を代表する英雄である坂本龍馬は、勝海舟の弟子でもあったのだ。この際、薩摩藩の西郷は長州藩に対し、かつては対立し戦ったことを水に流し、共に協力し幕府を倒すことを誓うのだった。

これに幕府は、反抗の姿勢を崩さない長州に向け、15万もの軍勢で出兵する。第2次長州征討である。ところが、今度は長州側が薩摩の助力を得たことにより、長州藩が幕府軍に勝利する。これにより、幕府の権威は失墜してしまうことになる。そしてついに、徳川幕府第15代将軍、徳川慶喜は「大政奉還」を決断するのだった。

これは、朝廷に政権を返上し、幕府単独の政治ではなく、幕府と諸藩の大名による会議によって政治を行うことを提案する策でもあった。勝はこの諸藩による連合政治の実現を称え、勝が理想とした国家構想が現実のものとなるかに思えた。ところが歴史は勝を、これにてお役御免にはしてくれなかったのだ。だが敵対する討幕(倒幕)派はこの「大政奉還」を、幕府側の延命処置であると否定し、徳川幕府打倒のための新政府を樹立し「王政復古」の大号令を発する。さらに徳川家の官位、そして領地までも没収すると宣言したのだった。

これを受け、江戸城の徳川幕府重臣たちは「大政奉還」したにも拘らず、徳川家を潰そうとする新政府のこの姿勢に対して、反発心と怒りから、徹底抗戦の気運が高まっていった。ここで、新政府軍と旧幕府軍の全面対決阻止のため、勝は奔走するも、重臣たちの中に勝の説得に耳を貸すものは誰もいなかった。



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もし、このまま江戸で新政府軍と旧幕府軍の内戦が起これば、日本は未曾有の大危機に陥ってしまうことを、勝ははっきりと見抜いていた。江戸に戦火が上がればどれほどの犠牲者を出すことになろうか、そして何より、西洋列強という外国からの圧力がかかるこの情勢下、内戦によって国力が低下し混乱に陥れば、その隙に乗じて諸外国からの侵略に抵抗することは不可能である。すなわち、日本が外国の植民地とされてしまうことも考えられるのだった。今こそ日本は一つならねばならぬこの時、官軍だ徳川だのと、私利私欲のために争っている時ではない。迫りくる日本存続の危機を救うべく、勝海舟は一人立ち上がるのだった。

江戸城無血開城

「憤言一書(ふんげんいっしょ)」という、この時に勝海舟が記した意見書が残っている。これには「天下の大権は私に帰せずして公に帰するや必せり」とある。天下の政治は、私事に基づくものではなく、必ず公(おおやけ)に基づくべきものである。という解釈だ。この信念によって勝は呼びかけ、動いた。だがこれに反し1868年/慶応4年1月3日、新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが勃発する。すでに天皇の勅命により、朝敵となってしまっていた旧幕府軍は敗北を喫し、徳川慶喜も江戸に敗走を余儀なくされた。この勝利で士気が高まる新政府軍を指揮するは西郷隆盛。西郷はこのまま一気に旧幕府と徳川家一掃を掲げ、江戸へ追撃を決定するのだった。

これにより、江戸をはじめ日本全土が内戦状態に突入してしまうことは避けられない事態であるかと思われた。この非常事態に、勝は江戸に逃げ帰った徳川慶喜に直談判を申し出る。海軍伝習所で培った徳川の海軍力を用いれば、いかに薩長連合軍といえど、これに打ち勝つことは可能である。しかし、勝は慶喜に対し新政府への恭順の道を選択されるよう進言する。新政府の意向に従いなさいということである。このまま戦いを続ければ傷は深まり、西洋列強と渡り合うことは不可能となり、日本を護ることはできない。国を想い、民を想うとはどういうことか。それは過去の栄光にすがり、権力を取り戻すことではない。時代の変化を見据え、自ら退くことこそ国家を救う道なのだと、勝は主君である慶喜に説いたのだ。

これに徳川第15代将軍・徳川慶喜も、新政府軍への恭順の意思を示すことを選択した。この慶喜の恭順の意思を、新政府との和平交渉の材料とし、勝は江戸への進軍の準備を進める新政府との会談を求めることとなる。これに対し西郷はあくまでも武力による旧幕府軍勢力の一掃する決意を固め、ついに1868年/慶応4年2月15日、西郷隆盛率いる新政府軍は、江戸への進軍を開始する。

新政府軍の脅威が江戸に迫っていた。この情報は噂として江戸の民衆にも知れ渡り、江戸は大混乱を招くことになってしまった。逃げ惑う民衆たちで収拾がつかない状況となっていたのだ。想像して頂きたい。現代において、もし我々が暮らす街に、他国の軍隊が進攻してくるとしたら、その町は大パニックとなるであろう。今でいう東京の大都市に、このような事態が迫っているのだ。

そしてこの事態に旧幕府側も徹底抗戦を示す態度を緩めず、恭順を意思を示す勝は、暗殺者による命の危険にも晒されていた。緊張高まる中、勝は西郷へ書状を託した使者を送る。西郷へ向けたその書状の内容とはこうである。要約すると、あなたが目の敵とする徳川慶喜公の、恭順の意思は本物であり、しかも、もはや徳川家も慶喜公も一国民に過ぎず、今はその国民同士が争う時ではない。新政府軍の進軍に伴い、江戸の民は混乱に陥り、これを鎮めるのは困難な状況となっている。今、あなたが賢明な処置をとれば江戸も国も救われるが、もしあなたが判断を誤れば国は崩壊するだろう。

この勝の書状に対し、西郷は直接的な返答はせず、使者には江戸攻撃中止のための条件を突きつけた。その条件とは「一、徳川慶喜備前藩お預け・一、江戸城明け渡し・一、武器、軍艦没収・一、関係者厳重処罰」という厳しいものであった。

無論、この条件で江戸城の旧幕府強硬派を納得させることはできない。当然、西郷もそのことを知ったうえでこの条件を突きつけたのだ。問答無用で着々と迫る新政府軍だが、江戸にも江戸総攻撃がその年の3月15日に行われるという情報が伝わる。絶体絶命の状況に追い込まれた勝は覚悟を決め、もし、新政府の総攻撃を食い止めることができなかった場合、火の海となった江戸から民衆を救うための手段として、漁船を手配するなどの、万が一に備えるために動いた。そして新政府による、江戸総攻撃の予定日前日には、江戸城に旧幕府軍の武士数千人が集結し、防御に備える。

最高潮に緊張が高まる中、勝は最期の望みとして、かつてお互いに認め合い、理想の国家構想を語り合った友、新政府軍、事実上の総司令官である西郷隆盛に、一対一の会談を申し込んだ。そして1868年/慶応4年3月14日、勝海舟と西郷隆盛による、日本の命運を賭けた会談が実現する。

勝と西郷、この偉大な二人の駆け引きに、無駄な言葉は必要ない。話の間さえも壮絶な戦いが繰り広げられた。その内容をダイジェストにてお送りする。

ある一室にて、勝海舟、そして西郷隆盛という、その後の日本の運命を背負う男が静かに相対した。



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向き合い着座した二人の男の間に、しばらくの沈黙が流れる。

口火を切ったのは勝であった。

勝 「慶喜様のご恭順の意向はすでにご承知のことであると思う。我々臣下についても恭順の意思に嘘偽りはない。よれゆえ、どうか明日の江戸総攻撃については見合わせていただきたい」

西郷「……それならば、江戸城を即刻渡されたし」

勝の真意を計っているのであろう西郷の言に、勝は沈黙する。そしてしばらく経ち。

勝 「江戸城は、お渡し申そう」

かつて自分が認めた西郷隆盛という男であれば、きっとわかってくれる。それに賭けた勝の応えであった。しかし、この勝の返答に西郷は容赦なく畳み掛ける。

西郷「武器弾薬もいかん」

勝 「お渡し申す」

勝はすぐに応える。だが、勝はこれに徳川方の実情を訴える。

勝 「即日に武器弾薬の引き渡しの命を下せば、恭順に不満を持つ強硬派が城に立て籠もり、あなたたちと戦おうとするだろう。我々は今この時、国家という公(おおやけ)のために恭順を示すのであり、その公を貫くためにも、武器引き渡しには今しばらくの猶予をいただけぬであろうか」

今度は勝の返答に西郷が沈黙する。

西郷「……わかりもうした」

勝は西郷から良承の言を引き出した。西郷にとってはここまでの恭順を示した相手を攻撃したとあっては、自分たちの大義を見失うことになるのではないかという、その信念をも勝の想いによって揺るがされたのだ。

そして

西郷「明日の江戸総攻撃は、中止いたす」

西郷の口から、歴史に刻まれる決定的な一言が告げられた。ここに世に云う「江戸城無血開城」が決まったのである。かつて共和政について語り合った友の絆がもたらした歴史的瞬間であった。もしお互いの人となりを知らぬ間柄であったならば、決して互いを信ずることはできなかったであろう。

和平成立後のエピソード

西郷との会談を終え、勝が江戸城へ還ってきたのは、夜も更ける頃であった。この時の江戸城にいた人々様子を記した勝海舟の手記による資料にはこう残されている。緊張から解き放たれた勝は大声で「明日の新政府の総攻撃は中止になりましたぞ」と叫ぶと、周囲に集まっていた人々からは「オオオー」という心から叫ぶような歓声が上がったという。その後はしばらくの無言で何も言葉を発する者はいなかった。勝が近づくと、皆死を期している顔であった。



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その想像をも絶する状況から脱した人々は、その安堵の表現を叫ぶことで表すことはできても、喜びに表すことなどできなかったに違いない。もしも和平交渉が決裂していれば、この人々は自尽(命を落とす)していたであろうことは明白であったのだ。

勝海舟が成し遂げた「江戸城無血開城」という偉業は、日本国家を救い、数多くの人命を護った。現在の日本という国家が存在しているのも、勝海舟という偉大な英雄が、この時代に存在していたからに違いない。

(寄稿)探偵N

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コメント

    • BIG-BIRD
    • 2020年 1月 27日

    ①生誕1823年と書いてあったので?生誕という言葉は、人に限る。しかも、偉人に限って用いる言葉なんですね。勉強になりました。
    ②1864年/元治元年9月11日11月、大阪にてとある。大坂ではないのかと思って調べると、正式に大阪になるのは、明治20年であり、それまでは大阪・大坂どちらも可でした。
    ③我々が暮らす街に。。。その街かと思っていたら、次にはその町はとある。街で統一してほしい。
    ④最期の望みとあるが、最後の望みだと思う。
    ⑤勝「慶喜様の・・・」によれゆえとある。それゆえだと思う。
    ⑥勝は西郷からの良承とある。了承だと思う。
    ⑦勝海舟の手記による資料とあるが、個人的には史料という用語の方がよいと思うが。

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