飯沼貞吉~命を授けられた白虎隊士の生涯


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1868(慶応4)年、討幕派の新政府軍と旧幕府軍の間で勃発した戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに開始された。
日本の命運を賭けた激闘はやがて会津若松(現・福島県)にまで及ぶこととなる。
圧倒的武力と兵力で進軍する新政府軍に対し、松平容保(まつだいらかたもり)率いる会津藩は徳川家存亡のために立ち向かった。
そしてこの会津戦争に命を捧げた少年たちがいた。
彼ら少年兵で組織された隊が白虎隊である。
白虎隊士たちは死守すべき鶴ヶ城とその城下が新政府軍により陥落されたことを飯盛山の山中で目撃し、自刃(自殺)したとされている。
しかし、飯盛山の自刃から命を取り留めていたとされる白虎隊士・飯沼貞吉(いいぬま-さだきち)が残していた手記によると、これとは異なる真相が語られている。

白虎隊士たちの自刃の真実と、会津戦争を生き残った白虎隊士・飯沼貞吉のその後の生涯について迫ってみたい。

白虎隊

会津戦争に備え16歳、17歳の少年たちを中心に組織された部隊が白虎隊で、中には13歳の幼き少年までも参加していたとされている。
白虎とは中国の伝説にある方角を司るという霊獣である四聖獣の北・玄武、南・朱雀、東・青龍、西・白虎から用いられたものである。
そのため会津藩では白虎隊の他にも玄武隊・朱雀隊・青龍隊も組織されていた。

白虎隊は士中隊・寄合隊・足軽隊の約340名によって編制された。
だが、装備された銃などの武器は旧式のものばかりであり、近代兵器を装備した新政府軍に対抗できる戦力には到底成り得なかったといえる。
しかし、新政府軍によって逆賊の汚名を着せられた松平容保と会津藩は、もはや新政府への恭順の道も閉ざされ、藩の名誉と存亡を賭けた戦いへと突入していくのだった。

1868(慶応4)年8月22日、白虎隊も守備を固めるため各隊は防衛拠点へ出陣する。
会津藩の家臣たちは、白虎隊などの少年たちだけでなく、老若男女に至るまで玉砕を覚悟した戦いであった。
やがて新政府軍による激しい進軍により会津軍は鶴ヶ城に立て籠もってっての籠城戦を余儀なくされる。
城内では城に残った239名もの婦女子が自刃する悲劇も起きたといわれる。

そして8月23日、戸ノ口原の防衛に身を投じていた白虎隊・士中二番隊はもはや戦線を維持することは難しく、残った隊士は潰走し飯盛山まで辿り着いたのだった。

白虎隊士自刃の通説

これまで語り継がれてきた飯盛山で白虎隊士が自刃した理由は、会津藩の拠点である鶴ヶ城(若松城)とその城下周辺から戦闘によって上がった炎や煙を飯盛山から目撃した隊士たちは、それを城が陥落したためだと誤認し、絶望するとともに会津藩への忠義から自ら命を絶ったとされている。
つまり衝動的な感情による集団自殺とされている。
しかし実際には鶴ヶ城はまだこの時点では陥落しておらず、会津藩降伏までは1ヶ月を要する。
このとき19名が命を落とし、喉を突いて自刃を図った飯沼貞吉だけが命を取り留めている。

飯沼貞吉が残した真相

飯沼貞吉の証言から記された記録に飯沼が自ら修正を加えた「白虎隊顛末略記(びゃっこたいてんまつりゃっき)」には、白虎隊士の自刃は鶴ヶ城陥落による絶望という衝動的な自殺ではないと記されているのだ。
むしろ会津藩はまだ敗北していないことを信じていたという。
そこで隊士たちの間では、城に戻り鶴ヶ城を死守するために戦うことを主張する者、または最前線に乗り込み玉砕するまで抗戦することを主張する者とで激論が交わされたという。
しかし、戦いで戦力を失い負傷し、命からがら飯盛山まで落ち延びてきた自分たちが参戦したところでもとより負けを覚悟の上の戦いでしかない。
武士として会津の足手まといになることを恥とし、少年たちは武士の本文なるものを明らかにするため、自ら自刃の道を選んだというのだった。

維新後の飯沼貞吉の生涯

会津藩士である印出新蔵(いんでしんぞう)の妻・ハツは飯盛山でまだ息のあった飯沼貞吉を見つけて救出したといわれています。
ハツの介抱により一命を取り留めた貞吉は後に、新政府軍に捕らわれの身となるが、会津とは敵対していた長州藩士である楢崎頼三(ならさきらいぞう)に見込みがあるということで引き取られ長州・長門国(現・山口県美祢市)の庄屋(高見家)に預けられ庇護されるのだった。
ここで問題になるのが、会津藩の少年を長州で庇護することは会津・長州双方にとって都合が悪かったのだ。
そこで会津では貞吉の母にのみにその事実を知らせ、長州でも楢崎の他には高見家をはじめごく限られた者以外にはこのことを隠したのだ。

しかし、生き残った貞吉は飯盛山で自刃した仲間と共に死ぬことが出来なかった自分自身を許すことができず、その後も自殺を図るなど自ら命を絶つことを考える日々であったが、それを思い止まらせたのも楢崎頼三だったという。

楢崎「今の日本は諸外国からの脅威にさらされている。
もはや会津や長州といって争っているときでない。
これからの日本は皆が心を一つにしてこの国を豊かで強い国にしていかなくてはならない。
そして貞吉、その中心となるのはお前たち若者なんだぞ。
貞吉、助けてもらった命を大事にしなさい。
そして、これからの日本のために勉強しなさい」

それを聴いた貞吉は、生まれ変わったように勉学に励んだという。
それから貞吉は名を貞雄と改名した。

その後、飯沼貞雄は電信技師となり東京の工部省技術教場、下関の赤間関、新潟の逓信省(郵便・通信を管轄する中央官庁)など各地での勤務を経て、日清戦争には大本営付の技術部総督として出征もしている。
それから札幌郵便局工務課長、仙台逓信管理局工務部長に就任するなど近代日本における電信電話の技術発展に大きく貢献したのだった。

1931年(昭和6)年2月12日、飯沼貞吉(貞雄)は宮城県仙台市にて77年の生涯に幕を閉じた。

飯盛山での白虎隊士自刃の真実は貞吉の残した記録にあったのか、それとも貞吉自身がそれを生涯で己に問い続けたのか。
彼が生かされた理由と共に。

貞吉はあの時、自分が生かされた理由の答えを、日本の電信発達への貢献という形で後世の人々に残してくれたのではないだろうか。
先に逝ってしまった仲間の隊士たちのためにも。

(寄稿)探偵N

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