「土方歳三」その秘めたる優しさ~夢に散らせた鬼と云われし漢の生涯


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新選組、鬼の副長として恐れられ、後世までその名を轟かせる土方歳三

江戸時代末期から幕末維新後において、京都における反幕府の勢力への取り締まり、そして幕府統治国家の治安統率を目的として組織された新選組という組織の副長として恐れられたその名を知らぬ者は少ないだろう。

土方は、剣豪たちを終結させたこの新選組の隊士を厳しい戒律によって統率し、掟を破った者を容赦なく取り締まった。つまり切腹などの死罪を与えるという、まさに鬼の副長といわれるに相応しい人物として知られている。

だが、果たしてこの土方歳三という人物は、鬼として知られるような厳しいだけの男だったのであろうか。そんな新選組副長、土方歳三という男の人物像を探ってみたい。

ちなみに、新選組という名称は新撰組と表記される場合もあるが、今回は新選組として統一したい。



土方歳三

土方歳三 (ひじかたとしぞう) 諱・義豊

1835(天保6)年5月5日、土方歳三は武蔵国多摩郡(現、東京都日野市)で生誕する。

土方は少年の頃からワンパクだったようで、奉公に上がってはすぐに喧嘩したり騒動を起こしたりという問題で郷里に追い返されてしまうことがあったようだが、一方で各地にある剣術道場に他流試合を挑み修行を積むというその後の土方を思わせるエピソードも残している。そんな中土方は、試衛館という道場で剣術指導を行っていた、後の新選組局長、近藤勇と運命の出会いを果たしている。

そして1863(文久3年)年2月、土方は試衛館の剣士と共に江戸幕府・第14代将軍・徳川家茂を警護する浪士組に応募するために京都へ赴くこととなった。

新選組の結成

1863(文久3年)年、会津藩と薩摩藩を主とする公武合体派によって長州藩を中心とした尊王攘夷派と急進派の公卿たちを京都から追放するといった八月十八日の政変(文久の政変・堺町門の変)という抗争が起こる。

この八月十八日の政変においてその働きが認められた壬生浪士組(新選組の前身)は、その内部で尊王攘夷派として反幕勢力への変化を打ち出し江戸に戻った新徴組と、あくまでも幕府守護のため京都に残った者に分裂し、京都に残った者たちは会津藩主・松平容保配下京都守護職として新選組を結成した。

結成当初の新選組はまだ指揮系統が一本化しておらず、筆頭局長であった芹沢鴨や副局長であった新見錦らを死に追い込み、山南敬助を総長に据えることで局長には近藤勇、副局長には土方歳三という体制が完成する。

池田屋事件

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩士だが、高杉晋作久坂玄瑞らは情報収集を行うため潜伏活動をしていた。

長州藩、土佐藩をはじめとする尊王攘夷派の志士たちは御所を放火し、混乱に応じて中川宮を捕らえ、一橋慶喜徳川慶喜)や松平容保を暗殺し、長州へ孝明天皇を連れていくという計画を遂行しようとしていた。

この陰謀を察知した新選組は、1864(元治元年)年6月5日、長州藩士ら約40名が会合を行っていた池田屋に討ち入り、攘夷派の志士たちを襲撃し数多くの志士たちを斬り殺したのだった。土方も隊を引き連れ近藤や沖田総司の後から参戦している。

この事件により、新選組の勇名は天下に知れ渡ったのである。尚、このときすでに結核を患っていたのか、一番隊隊長であった沖田総司が吐血したとも云われている。

そして、山南敬助を副長から総長に据えたのはその後のことで、これにより新選組副長は土方一人となり、局長の近藤勇の右腕として組織を完全に掌握するに至る。

鳥羽・伏見の戦いから五稜郭

1867(慶応3年)年6月には幕臣として取り立てられたのだが、その直後の10月14日に幕府は大政奉還し、政権は王政復古の大号令と共に朝廷へと返上される。そして、旧幕府と維新政府軍との内戦、戊辰戦争が勃発することとなり、土方も幕臣として新選組を率い幕府存続のための戦いに身を投じることになるのだった。

1868(慶応4年)年1月3日、負傷した近藤勇に代わり新選組を指揮する土方は鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、旧幕府軍は外国から近代兵器を取り入れた新政府軍の圧倒的戦力の前に完膚なきまでに叩きのめされた。だが、土方自身は戦う前から悟っていたのだ。アームストロング砲といった強力な近代兵器による爆撃に対し、日本刀で立ち向かったとしても勝機などもとよりあるはずもないということを。

その後、局長の近藤勇は新政府軍に投降。それを受け土方は近藤を救うべく紛争するのだが、1868(慶応4年)4月25日板橋刑場で近藤は斬首となる。

近藤が斬首となるまでの間、土方も勝海舟らの力を借り近藤の助命を嘆願するも、新政府軍との戦いは激化の一途をたどり戦線は会津へと伸びていた。新選組の本隊を斎藤一に預け、土方も会津へ向かい第一次宇都宮の戦いにおいて勝利を収め宇都宮城の陥落に貢献するが、第二次宇都宮の戦いで負傷し会津へ護送となり、療養を余儀なくされる。

この療養中に土方は局長であった近藤勇の墓を天寧寺(会津若松市)へ建立したと云われている。

戦列に復帰した土方であったが、会津戦線はさらに激化。仙台にて榎本武揚と合流し、戦いの舞台は蝦夷地(北海道)に移ることとなる。

箱館(函館)に進軍、五稜郭を占領した土方や榎本ら残る旧幕府軍兵たちは、この地で榎本武揚を総裁とし、蝦夷共和国を創立。この新たに樹立した政府で土方は陸軍奉行並・箱館市中取締・陸海軍裁判局頭取という役職を担い、自らの夢を蝦夷共和国に賭けるのだった。

1869(明治2年)年5月11日、ついに維新政府軍の総攻撃は開始され、土方も応戦するため残った僅かな兵と共に出陣する。おそらくは五稜郭でのこの戦いで果てることを悟っていた土方は迫りくる大軍に一歩も退くことをしなかった。同日、土方歳三は抱いた夢と共にその命を散らせたのだった。

土方が描いた夢と知られざるその優しさ

なぜ土方は、戦力の差を知りながら無謀ともいえる戦いに自ら身を投じたのであろうか。それは近藤勇と分かち合った夢を捨て去ることができなかったからではないだろうか。江戸幕府の恒久的繁栄、そして近藤勇を旗印に新選組を天下に轟かせるという夢。近藤と同じ農民出身という境遇から幕府の幕臣にまで成りあがった土方には、徳川を見捨て新時代の到来を甘んじて受け入れることはその矜持が許さなかったに違いない。

そして、戊辰戦争のときには旧幕府軍が敗れることを、また自らが死地へ赴くことを知っていたのかも知れない。

土方は五稜郭にて戦死する一ヶ月も前に自分の小姓に、自らの写真や辞世の句、遺髪として髪の毛を、日野にいる新選組の後援者であった佐野彦五郎のもとへ届けるよう託したという。だが土方の小姓・市村鉄之助は土方と最期まで運命を共にすることを涙ながらに訴える。そんな、当時16歳という若さだった市村の願いに対し、土方はあえて刀で脅し従わせるのだった。しかも大切な刀を換金用の路銀として与え、戦場となる五稜郭から出させるため外国船の手配まで行った。

数ヶ月後、市村は佐野彦五郎へ会うことが叶った。そのとき市村が預かっていた、土方が記した手紙の内容は、市村少年のことを頼むという旨のものであったという。



ちなみに、土方歳三の姿として残っている写真は、このとき土方が市村に託したものである。

(寄稿)探偵N

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