河井継之助~明治維新を阻止しようとしたサムライ~


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幕末から明治にかけて活躍した、英雄と呼ばれる偉人たちが数多く存在する。

明治維新の立役者、それに対して新政府に最後まで抵抗し戦った男たちがいた時代。
そんな近代日本の礎となる大きな変換をもたらしたこの時代に、河井継之助という武士がいたのをご存知だろうか。

風雲急を告げるこの時代、徳川慶喜によって大政奉還が行われると、新政府軍による王政復古の大号令が高々と発せられる。
そして新政府軍による討幕の進軍に立ち上がったのが、長岡藩士である河井継之助だった。

今回は、ある地方で起こった戊辰戦争での局地戦で、新政府軍の圧倒的兵力に立ち向かった、小さな藩を指揮した河井継之助の物語をお伝えしたい。



河井継之助

河井継之助ーかわい・つぎのすけー 諱・秋義ーあきよし

文政10年(1827年)1月1日生誕

慶応4年(1868年)8月16日死没

長岡藩士・河合代右衛門秋記の長男として長岡城下に生を受けた継之助は、幼少の頃より負けず嫌いで気性が激しくいつも周囲の者を困らせていたといわれており、剣術・馬術の師匠でさえ手に負えないほどであったとう。

「継之助」の名は幼名であったものの、彼は元服後「秋義」を名乗り通称として「継之助」を用いている。

気性が激しい反面、勉学に励む秀才でもあった継之助は儒教の一派である陽明学を学び、志と教養を身につけ17歳にして長岡藩を中心で支える藩士となる誓いをたてるのだった。

越後長岡藩は現在の新潟県長岡市から新潟市の領域を治めていた小藩であった。

長岡藩での台頭から遊学の度へ

嘉永6年(1853年)6月、ペリー艦隊いわゆる黒船来航により、当時鎖国政策を行っていた江戸幕府にペリー提督は開国を迫った。
外国艦隊からの強大な戦力の前に幕府は屈服し、嘉永7年(1854年)、日本は日米和親条約の凍結するかたちで、ついに開国することとなる。

これにより、各地で攘夷運動が盛んとなっていき日本は動乱の時代へと突入していくのだった。
その影響は、江戸だけではなく各地方の諸藩にも及び、それは北越にある小さな藩も例外ではなかった。

この頃、北越の日本海沿岸に位置する長岡藩には、幕府から外国からの侵略の脅威から国家を守るため、日本海に面する地域の警備を強化するよう求められていた。
具体的には新たな大砲などの近代兵器を取り入れ、軍事力の強化にあたることを命ぜられていたのだ。

しかし、長岡藩は財政難に陥っていたことから、軍事力の強化が困難な状況であった。

この状況で行われた藩の重役会議には、当時28歳という若さでありながら河井継之助も出席していた。
そして、若き秀才であった継之助はその若さもあってか、藩の重臣たちに臆することなく現在の藩の財政難は老中たちの責任であると追及するのだった。
財政圧迫の原因は今も昔も変わらない。

継之助は金の工面に困ればすぐにその場しのぎの借金に頼り、当然借金するのは藩であり自分たちの懐は痛くも痒くもない名ばかりの老中たちが役職にいつまでも君臨し、高い報酬を得て私腹を肥やしているこの現状では、抜本的な立て直しはできないという持論を展開する。

こうなれば言うまでもなく老中たちからの反発を買い、藩主でさえも抑えることはできず、無論継之助の進言も受け入れられないのだった。

このような理不尽な現実に継之助は、藩を辞職し安政5年(1858年)、自らを生かす道を求め遊学の旅に出るのだった。

旅路の途中、継之助は備中松山藩の山田方谷との出会いを果たす。
報告は藩財政立て直しの達人という評判で知られる人物でもあった。
継之助はその後半年に渡り備中松山にて方谷のもとで藩政改革について学んだと云われている。

継之助が報告から学んだ多くのことのひとつにこういったことがある。

ー古き者が老いてなくなり、若き者が成長し改革とは成し遂げられる。
成果が出るまでには長い時間が必要となるものだー

継之助が考えていること、感じたことは決して間違いではない。むしろ真理である。
だが、だからといってそれに人が従うわけではない。都合が悪い者からしてみれば反感を抱かれ、かえって行いの邪魔となるだけなのだ。
だとしたら、耐えて期を待つことも必要となることもある。

方谷は、継之助に指導者としての心構えを教えたかったのではないだろうか。

藩政改革から大政奉還へ

その後帰藩した継之助は慶応元年(1865年)には長岡藩郡奉行に就任するまでに昇り詰める。
そして、山田方谷の教えから学んだ藩政改革に乗り出すこととなるのだった。
それからの継之助は指導者としての頭角を現し、町奉行兼帯から奉行格加判とさらに出世していき、事実上の長岡藩政策の実権を握るまでになっていった。
継之助の藩政改革の功績により、長岡藩の財政も改善され領民の暮らしも良い方向へと向かっていった

しかし、尊王攘夷運動が世間を賑わす風雲急を告げるこの時期、ついに慶応3年(1867年)10月14日、大政奉還が行われた。
これにより日本国家は維新を掲げた新政府軍と旧幕府側との内戦状態へと突入していくのだった。

継之助の考えは、あくまでもこれまでのように幕府と諸藩による体制維持が理想であった。
少なくともこの情勢下で戦乱が起こってしまえば、国益を損ね国家の弱体化を招いてしまう。
それでは、どうして諸外国からの脅威から国を護ることができようか。
まずは国が一つとなり、諸藩やその領民の暮らしが豊かになってこそ国家を強くすることに繋がるのであり、それによってはじめて外敵からの圧力に対抗できるのではないか。
今、この時に内部で争っていてどうするのだ。
そんな継之助の想いもむなしく、慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発してしまう。

近代兵器をいち早く取り入れた新政府軍は旧幕府軍を撃破していく。
ついに徳川慶喜も降伏を示す。

勢いに乗る新政府軍は、抵抗を緩めない会津藩への進軍を進める。
会津へ進軍する新政府軍は、北陸道を通過する過程でその途中に反抗した諸藩を次々に屈服させ従えていった。
そしてついにその進軍は長岡藩にまで迫ろうとしていた。

北越戦争までの継之助の奔走

この事態に、継之助は江戸にある長岡藩邸を訪れていた。
それは、強力な近代兵器を要する新政府軍に対抗する唯一の秘策のためであった。

もはや江戸に拠点は必要ないと悟った継之助は、長岡藩邸とその家宝を全て売り払った。
またあらゆる方法で軍資金を調達していき、その資金でイギリスやアメリカの武器商人からアームストロング砲・ガトリング砲などの近代兵器を仕入れていったのだ。
連射式のガトリング砲においては日本にはまだ3台しか入ってきていなかったうちの2台を入手していた。

これらの兵器をひっさげ継之助は長岡へ戻り、新政府軍との対決に備えた。

そして慶応4年(1868年)4月21日、新政府による政体書が発布された。
その内容とは日本各地を「府」・「藩」・「県」に分けこれを中央政府が統制するという国家体制であった。
これは、地方での権限を抑制し権力を中央に集中させるという新政府首脳による目論見であり、これにより中央政府いわゆる新政府の要求を拒んだ藩は軍事力によって制圧されることになったのだ。

その新政府への恭順命令は長岡藩にも届いた。

長岡藩の重臣たちで恭順を示すべきか、抗戦すべきか議論が行われる。
しかし、その一人である継之助は選択に迷うことになった。
ここで恭順したとしてもその後、新政府軍として会津との戦いに身を投じることになり、新政府の命令を拒んでも戦うことになる。
どうにかして戦争を避ける方法はないものだろうか。

一つの結論として継之助は長岡藩が新政府にも会津藩にもつかない中立という立場をとることを考えた。
長岡を救うにはこれしかないと継之助は考えたのだ。

慶応4年(1868年)5月2日、継之助は慈眼寺(新潟県小千谷市)にて新政府軍との戦争回避のための会談に臨むことになる。

新政府軍から会談に出席したのは、土佐藩の岩村精一郎であった。
ここで戦争になれば天下は乱れ多くの人財を失うことになる。
それでも長岡を従え、会津までも討つのはどのような理由からであろうか。
新政府も会津もなく戦争を回避し共存することはできないのか。

それができないのは、官軍と言いながら全権力を手にし、私的な制裁を目的としているからにすぎない。
そのような政府に従うことも侵入を許すこともできない。

継之助はそう言い放ち、国家の理想論を記した嘆願書を差し出し新政府へ取り次ぐように申し出た。

その嘆願書には、私利私欲のためではなく、領民が安心して幸福な生活を送ることができ、日本中の人々が皆協力し合い強固な国家を築き上げることことができれば、天下の幸せに繋がることでしょう。
といった内容のものが記されてあった。

だが、岩村はこの継之助の要求を退け、会談は決裂に終わった。

もはや、継之助と長岡藩には新政府軍と戦う道しか残されていなかった。
新政府軍を、長岡藩を蹂躙(じゅうりん)させ会津へ向かわせるわけにはいかない。

北越戦争そして継之助の最期

慶応4年(1868年)5月10日、北越戦争が開始された。

長岡藩の兵力1,300名に対し、新政府軍はおよそ4倍の5,000名という圧倒的兵力の差であった。
しかし迫りくる新政府軍に長岡藩もガトリング砲といった近代兵器や継之助の巧みな戦術と用兵で応戦し、奇兵隊などが参戦していた新政府軍に痛手をあたえるものの、圧倒的兵力の前に長岡城を奪われてしまう。

それでも継之助率いる長岡藩はゲリラ戦法などを用い数ヶ月に渡り抵抗を続けるがこの頃、領民に対する人夫や米といった食料(兵糧)の調達の撤回を求めて一揆(暴動)が発生してしまう。
長岡藩やその領民を守るための戦いであったはずのこの本末転倒の出来事にも継之助率いる長岡藩はなんとか事態を鎮圧することができたが、このことによ、兵力の減少と長岡城奪還の期を遅らせる結果となってしまった。

それでも、7月25日(旧暦)には長岡城を奪還することに成功する。
だがこの戦いの最中、継之助は左足に銃弾を受け重傷を負ってしまったのだ。

継之助が陣頭指揮を取ることができなくなってしまった長岡藩の士気は低下し、計画していた奇襲戦法も行うに至らず、もはや体勢を立て直し増援が行われ1万2千名もの大兵力に膨れ上がった新政府軍の反撃に耐えるだけの余力は残されていなかった。

ついに慶応4年(1868年)7月29日、長岡城は再び陥落し、新政府軍の進軍はさらに会津へと伸びるのであった。
ここに新政府軍が最も苦戦を強いられたとされる北越戦争は終結した。

継之助は長岡城から逃れ、八十里峠(八十里越)を越え会津若松を目指していた。
しかし、継之助は会津若松へ到達することは叶わなかった。

会津藩領に入った頃、松本良順の診察と治療を受けたとされ、このときすでに破傷風となっており手遅れとなっていたと云われている。

そして慶応4年(1868年)8月16日、この世を去った。
42年の生涯であった。



その河井継之助が生前に残している言に「天下に無くてはならぬ者になるか、あってはならぬ者になれ」というものがある。

まさに、河井継之助という男の生き様を表す言葉ではないだろうか。

多くの人々を救うために行ったことが、多くの血を流してしまう結果にもなってしまった。
しかし、この男が動かなければ人々はただ時代の動きに翻弄されただけで終わっていたのかもしれない。

河井継之助の戦いとは小さな地方で起こった大きな戦いであった。

(寄稿)探偵N

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