横井小楠  国是七条の熊本藩士(肥後藩士)




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横井小楠(よこいしょうなん)は、熊本藩士・横井時直の次男として、1809年8月13日、肥後(熊本県)熊本城下の坪内町で生まれた。

1818年、熊本(肥後)藩校・時習館に入学し、居寮生となる。
その後、講堂世話役を経て、1837年に時習館居寮長(塾長)となると藩校の改革として下津久馬(下津休也)と居寮新制度を計画したが、実行途中に中止されている。
そして、熊本藩家老・長岡是容の後ろ盾を得ると、1839年、藩命によって江戸へ遊学し、幕府儒官・林テイ宇の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らとも出会った。
横井小楠は鎖国体制・幕藩体制を批判し、江戸滞在中には幕臣・川路聖謨水戸藩士・藤田東湖などとも親交を得ているが、酒を飲むと人が変わると当時の史料複数に見受けられる。

1840年、酒に酔って喧嘩したことで、熊本藩から処分を受け、1841年に帰藩する。

熊本では長岡是容、下津久馬、元田永孚、萩昌国らと研究会を開いた。
これがのちの「実学党」となり、筆頭家老・松井父子を頭領とした「学校党」と対立することとなる。

1843年、私塾を開くと第一の門弟・徳富一敬、第二の門弟・矢嶋源助や、嘉悦氏房、長野濬平、河瀬典次、安場保和、竹崎律次郎など多くの門弟を輩出することとなり、私塾の名は1847年に「小楠堂」となった。
1849年には、福井藩士・三寺三作が小楠堂にて学ぶと、1852年、福井藩の求めに応じて「学校問答書」を提出。
翌1853年には「文武一途の説」も贈ると、後に福井藩より招聘を受けた。

1855年、農村である沼山津(熊本市東区沼山津)に転居すると自宅を「四時軒」(しじけん)と名づけて、自身の号も「沼山」とした。

1857年10月17日、横井小楠の後妻である矢嶋源助の妹・矢嶋津世子との間に長男・横井時雄が誕生。
妻・津世子の姉は、徳富一敬に嫁いだ徳富久子と竹崎順子がおり、妹には矢嶋楫子がいる。
徳富一敬の子・徳富蘇峰は父の影響で、横井小楠の弟子だと称し、生涯の師と仰いでいる。徳富蘆花は弟。
横井小楠と津世子の長男・横井時雄は明治に衆議院議員も務め、新島襄山本八重山本覚馬の同志社にて第3代総長も歴任した。
この横井時雄は、明治9年に熊本バンドに参加し、最初の妻は山本覚馬の次女・山本みね。

1858年から1863年には、福井藩主・松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには江戸幕府の政事総裁職を担っていた松平春嶽の助言者として「国是七条」を建議し、参勤交代制の廃止など、幕政改革にも関わった。


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この「国是七条」の大きな柱は、欧米列強と対等に渡り合う為、日本国が一体となって「公共の政」と「海軍の増強」を行う事であった。
そして、国是七条は、この後、坂本竜馬の「船中八策」や、由利公生の「五箇条の御誓文」の原案として、引き継がれ明治政府の基本方針となったのだ。

しかし、1862年12月19日「士道忘却事件」が起こる。
肥後藩(熊本藩)の江戸留守居役・吉田平之助の別宅2階で、横井小楠は吉田平之助、都筑四郎、谷内蔵充の4名にて、京へ登る直前の別れにと酒宴を開いた。
谷内蔵充が急用で帰ったあと、突然覆面姿3人が、横井小楠らを襲撃。
横井小楠はすぐさま階段を駆け下りて越前藩邸に駆け込むと越前藩士と共に引き返したが、吉田平之助、都筑四郎は2ヶ月後に傷がもとで亡くなったと言う。
その為、熊本藩(肥後藩)では、仲間を見捨てて逃げたと非難し処罰を下そうとしたが、この時は、松平春嶽がかばい福井藩に戻った。
翌1863年に、熊本藩の実権を穏健派が握ると由利公正など横井小楠の仲間が処分を受けることとなったため、8月に福井藩の職を辞して熊本に帰った。
松平春嶽などの嘆願もあったが、熊本藩では藩の決まりを曲げることはできないとして、1863年12月に士籍剥奪・知行召し上げの処分とした。

これにより、大政奉還・王政復古までの約3年間を四時軒にて過ごす事となり、世界的視野での理論的影響を多くの幕末志士に与えていた横井小楠を、熊本藩は活かせなかったと言えよう。
なお、この四時軒には意見をかわすために、坂本龍馬、井上毅、由利公正など多くの志士が訪問しており、1864年2月、坂本龍馬勝海舟の使い熊本の横井小楠を訪ねた際には「国是七条」を説いたと言う。
その後、1864年4月、1865年5月と合計3回、坂本龍馬は訪問した。

酒を飲んで勝海舟・西郷隆盛らの人物論に話が及ぶと、横井小楠が「俺はどうだ」と坂本龍馬に尋ねたと言う。
すると龍馬は「先生は2階におられて、きれいな女どもに酌をさせて、西郷や大久保が行う芝居を見物するがよいでしょう。そして、大久保どもが行き詰まったら、ちっとばかし指図をしてやるとよございます。」と答えたと言う。
「先生は今はしんぼうの時です。新しい政府が出来る時、先生の出番はきますから、その時会いましょう」と坂本龍馬は四時軒を後にしている。

横井小楠は倒幕後に内戦となると外国の列強に支配される恐れがあるとして、勝海舟や松平春嶽などに訴えたと言う。

西郷隆盛や大久保利通ら薩摩藩と長州藩などにより、新政府が樹立すると徳川慶喜は謹慎し、江戸城は無血開城。
明治元年(1868年)、新政府に参与として出仕。
しかし、翌明治2年(1869年)、参内からの帰りに、南大和・十津川郷士らによって京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)にて暗殺された。享年61。

上平主税など十津川郷士の過激派は新政府の近代化政策に反発したのだ。
実行者であった十津川郷士ら4名は明治3年(1870年)に刑が確定し、首謀者とされた上平主税は、伊豆新島へ日本最後となる島流しの終身流刑となった。(約10年後に特赦)

横井小楠と維新群像

熊本城の東を流れる坪井川(つぼいがわ)沿いにある高橋公園に、横井小楠のほか、坂本龍馬(さかもとりょうま)、勝海舟(かつかいしゅう)、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、細川護久(ほそかわもりひさ)の5人の銅像が「維新の群像」として建立されています。

園内には西南戦争の熊本鎮台(くまもとちんだい)司令長官だった谷干城(たにたてき)の銅像もあります。
場所は、当方の九州マップで分かるようにしてあります。

横井小楠 寄留宅跡碑

越前の福井城下、北ノ庄城からほど近いところには、横井小楠・寄留宅跡碑の石碑があります。

横井小楠 寄留宅跡碑

福井市を流れる足羽川の川岸、民家の一角にありました。

横井小楠 寄留宅跡碑

横井・三岡旅立ちの像

もうひとつ、福井城の内堀脇に、横井・三岡旅立ちの像があります。

横井・三岡旅立ちの像

1858年、熊本に一時帰国する際の、横井小楠と三岡八郎(由利公正)を再現したもので、三岡八郎は、この旅で長崎での物資販売ルートを開拓し、福井藩の藩財政を改善しました。

場所は、当方の中部の観光用の地図をご参照願います。

(参考) 横井小楠ホームページ、ウィキペディア

宮部鼎蔵~池田屋事件に散った熊本藩の勤王志士
坂本龍馬とは?【坂本龍馬の人物像】詳細版~どのような人物だったのか?
松平春嶽 越前福井藩主で幕末期に活躍した名君
熊本城の歴史と見どころ~肥後国人一揆と城親基とは(熊本地震の被害も)
福井城(結城氏北ノ庄城)~今も福井の拠点となる立派な城構え
当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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