由利公正(三岡公正) 船中八策の原案を坂本龍馬と考えた福井藩士


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由利公正(ゆり-きみまさ、ゆり-こうせい)は、江戸時代の後期1829年に、福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として福井城下で生まれました。
福井藩時代には三岡公正と言い、明治維新後に「由利公正」に名を改めています。
若いころには畑仕事から馬の世話まで、家の手伝いを嫌な顔せずやったとの事ですが、1853年に家督を継ぐと、福井を訪れた横井小楠から産業発展や財政学を学んでいます。
横井小楠が熊本に戻る際には同行し、下関にて物産取引の実情を調査し、長崎では越前蔵屋敷を建てて、オランダ商館と生糸貿易の特約も結んでいます。
長崎の越前蔵屋敷は、今でいう「アンテナショップ」で、のち横浜にも出店されました。
トップの写真は、横井小楠と一緒に熊本に旅立った際の「旅立ちの像」と言う事になり、福井城の内堀脇にあります。



このように、藩主・松平慶永から財政手腕を買われおり、同じく抜擢されていた橋本左内らと国事に奔走しました。
特に、藩札発行と専売制を結合し殖産興業政策にて、窮乏していた藩財政を黒字に立て直しています。
しかし、最初は、武士のくせに、銭勘定ばかりと、周囲からバカにされたと言いますが、横井小楠を訪ねて熊本には何回か訪問しています。

長州征伐の際には、薩摩藩・長州藩などと幕府に従うなと藩内にて画策しましたが、支持が得られず福井で蟄居・謹慎処分となっています。

1867年、その謹慎中に土佐脱藩浪人の坂本龍馬が、新政府に参加してくれないかと、由利公正を訪ねました。
勝海舟からの話を聞いてわざわざ福井まで来たと言います。
坂本龍馬は2度訪問しており、五箇条の御誓文の原文となった「議事之体大意」のほか「船中八策」の基本的な構想を練ったとされています。
その坂本龍馬が福井を去って10日後、家老宅に招かれた由利公正は、帰り道に、大事に持っていた坂本龍馬の写真が無くなっていることに気が付いたと言います。
胸騒ぎがした由利公正でしたが、その2日後に、坂本龍馬の死がもたらされました。

蟄居生活は4年も続いていたところ、明治新政府に徴士参与として登用され、まず戊辰戦争の戦費を集める責任者となりました。
由利公正は、京都の大商人から5万両、大坂の大商人にも5万両の出費を命じて、合計10万両の御親征費(戦費)を調達し、西郷隆盛に届けました。
更に、商法司設置など積極的に経済政策を推進しました。

しかし、小判から紙幣など、急激な改革は当然反対勢力も多く、批判が高まり、明治2年(1869年)に早くも政府の職を辞しています。



ただし、政治手腕を買われて、明治4年(1871年)には、初代の東京府知事に就任しています。
翌年には岩倉欧米視察団に随行もしました。
また、東京が火災で焼けた際には、幅の広い道路にして防火対策をしようと都市改造を行い、今の銀座大通りも考案しました。
その後、元老院議員、貴族院議員もつとめ、明治42年(1909年)に脳溢血により没しました。享年81。

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