中根雪江~松平春嶽の片腕として公武合体や一橋慶喜の擁立に奔走

中根雪江



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中根雪江

中根雪江(なかね-ゆきえ)は、1807年7月1日に、700石の福井藩士・中根孫右衛門の長男として生まれました。

1830年に家督を継ぐと、江戸に赴いては平田篤胤から国学を学んでいます。

天保9年(1838年)7月、15代藩主・松平斉善が19歳で死去したため、兄であった12代将軍・徳川家慶の意向にて、田安家の8男・松平慶永松平春嶽)が11歳で、福井藩主に就任しました。

中根雪江は、松平慶永(松平春嶽)の教育係に抜擢され、藩主の松平春嶽自身も、本居宣長や平田篤胤から学びます。


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そして、中根雪江は参政として藩政改革にも参加し、福井藩士の俸禄三年間半減と、藩主自身の出費五年削減の倹約政策などを実行させ窮乏していた藩経済を立て直しました。
反対派の中心人物である家老・松平主馬を罷免させると、由利公正橋本左内らとともに更に改革を進めます。

また、笠原白翁(笠原良策)を支援するなどして、天然痘予防の普及にも務めました。

また、松平春嶽の政策を立案したのが、中根雪江と言う事になり、1853年に、マシュー・ペリー提督黒船艦隊が来航すると開国を進言したり、参勤交代制の緩和など補佐しました。

井伊直弼が大老となると、松平春嶽と中根雪江は謹慎処分になりますが、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、1862年4月には幕政へ参加することになり、中根雪江も江戸に赴きました。

そして、松平春嶽が政事総裁職になると、横井小楠らと公武合体政策に奔走し、将軍・徳川家茂の上洛に繋げました。

文久3年(1863年)5月27日に、京都の越前藩邸で坂本龍馬と会談もしています。
この時、福井城に籠っていた松平春嶽を上京させるようにと要請されましたが反対しています。
翌年6月に福井に戻ると、重臣会議にて、上京派である横井小楠らと対立し、一時蟄居となりました。



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明治新政府が樹立されると、徴士・参与、内国事務局判事として出仕しました。
しかし、徳川家の処遇問題で薩長閥と対立し、翌年には免職となっています。
以後は、福井県三国町宿浦に戻ると、友人の勝海舟と釣りを楽んだともあります。

明治10年(1877年)10月3日、東京・麹町の岩佐病院にて、脚気症により71歳にて亡くなっています。

坂本龍馬暗殺5日前の手紙

2017年に、坂本龍馬が暗殺される5日前の慶応3年11月15日に記載した手紙が発見されました。
差出人の名は、才谷楳太郎で、あて先は中根雪江となっています。
現代語訳にすると下記の通りとなります。

 一筆啓上差し上げます。

 このたび、越前の老侯(松平春嶽)がご上京になられたことは、千万の兵を得たような心持ちでございます。

 先生(中根雪江)にも、諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。

 しかしながら、先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の上京、出仕の一件は急を要する事と思っておりますので、なにとぞ早々に(藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄の上京が一日先になったならば新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまうと考えられます。

 ただ、ここのところにひたすらご尽力をお願いいたします。

       誠恐謹言

十一月十日

         龍馬

中根先生

   左右

追白

 今日永井玄蕃頭永井尚志)方へ訪ねていったのですが、面会はかないませんでした。

 談じたい天下の議論が数々あり、明日また訪ねたいと考えているところですので、大兄もご同行がかないますならば実に大幸に存じます。

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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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