柏木忠俊 韮山代官所の有能な人物で、明治維新後は足柄県令を歴任


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 柏木忠俊(かしわぎただとし)は、伊豆国韮山(静岡県)の出身で1824年3月25日に、代々、江川太郎左衛門家の手代である父・柏木平太郎の3男として生まれた。
 柏木総蔵(かしわぎそうぞう)と記載されることも多いが、柏木惣蔵、柏木荘蔵ともある。

 その江川家の江川英龍(江川坦庵)が1835年に伊豆韮山代官となる訳だが、洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げた江川英龍(江川坦庵)を、幼い頃から側で見て学び育ったのだろう。

 柏木忠俊は1837年(14歳)に江川英龍(江川坦庵)の中小姓兼書役見習(書記)となり、4年後には公事掛(韮山代官所手代)となって江戸詰すると、韮山の江川英龍(江川坦庵)の意を汲み幕府などとの折衝に当たった。その為、江戸では柏木忠俊が江川家の切り盛りをしているように見えたと言う。

 1842年には、江川英龍(江川坦庵)が韮山にて「江川塾」を開き、佐久間象山大鳥圭介橋本左内桂小五郎(木戸孝允)など多くの志士が入門しており、大砲や小銃製造が本格化。

 1854年7月には、砲術・航海術・蒸気船製造の習得のため長崎遊学を幕府に願い出て、望月大象・矢田部郷雲と3人で新式爆弾ガラナートの製法研究などを行った。
 韮山反射炉や品川台場の築造にも従事し、江戸屋敷ではパン製造も試みている。

 あまりの激務に体調を崩した江川英龍(江川坦庵)が、1855年1月16日に没すると、江川英敏・江川英武をよく補佐し、明治維新の際には素早く朝廷に帰属して江川家を存続させた。
 芝新銭座の大小砲習練場(江川塾)は、長崎遊学時より懇意にしていた福沢諭吉に払い下げられて、慶應義塾の教場となったが、慶應義塾は翌年、三田に移転している。

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 日米和親条約で下田を開港して以来、伊豆は重要な地域であり、1864年6月29日、韮山代官所に韮山県を設置されると会計官権判事にもなったが、病のためすぐに辞し療養した。
 明治2年には韮山県大参事として知事・江川英武を補佐した。
 明治4年に足柄県が成立すると、参事から権令、そして足柄県令を明治9年まで歴任。
 この足柄県令になった際には、長州藩出身の楫取素彦が足柄県参事として小田原城の県庁に赴任しており、共に県政に当たっている。
 明治6年(1873年)には教員養成のため講習所を設置し、現在の静岡県立韮山高等学校に至っている。

 明治8年には、小田原から箱根湯本まで人力車が走れる道路整備を、湯本の福住旅館・福住正兄にアドバイスし、箱根観光地化への初期段階でも貢献した。

 明治9年(1876年)に足柄県が廃止後されると、木戸孝允ら旧門人の勧めを断り引退。
 福澤諭吉ら旧幕臣と交遊しながら終生、江川家と伊豆の民業育成に尽力した。

 明治11年(1878年)11月29に死去。

 なお、柏木忠俊の引退を大変残念がった小田原住民らは、後に足柄県再置運動や伊豆国神奈川県管轄替運動を起こす事となる。

韮山代官の江川英龍とは? 韮山反射炉を計画し大砲を鋳造する
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福沢諭吉とは~幕末期に3度に渡る海外派遣と学問のすすめ・慶應義塾

 

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