古高俊太郎~在京の尊攘志士を支援した枡屋の主人


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 古高俊太郎(ふるたか-しゅんたろう)は、大津代官所の手代・古高周蔵の子として、近江の古高村(滋賀県守山市)にて1829年4月6日に生まれた。
 母は公家・広橋家の家来の娘。

 豊臣秀吉の五奉行・増田長盛の直系とされる。
 また、古高家は系図上、長州藩毛利家の遠縁にあたると言う。

 16歳のときに、父・古高周蔵が、山科の毘沙門堂門跡に仕える事になり京都の堺町通丸太町下るへ移住すると、尊皇攘夷を唱える梅田雲浜の弟子となった。
 父・古高周蔵も勤皇思想の持ち主であったとされる。

 1861年、京都河原町四条上ル東にある諸藩御用達・枡屋の養子に入って、枡屋喜右衛門と改名した。
 毘沙門堂の家士として仕える傍ら、偽装のため表向きは古器骨董商の店を開いた模様だ。
 特に筑前藩(黒田家)の御用達であり、武士が出入りしても怪しまれることがなかった。
 このように古道具や馬具を扱い、早くから宮部鼎蔵らとも交流をすると、有栖川宮熾仁親王との連絡役や、京の情勢を探る長州藩の大元締として情報活動と武器調達を担当し、久坂玄瑞桂小五郎らを有栖川宮へ近付けた。

 1863年8月18日の八月十八日の政変から約10ヶ月後である、1864年6月5日の早朝、新選組の武田観柳斉以下、数名の隊士が桝屋喜右衛門方を急襲し、古高俊太郎を捕縛するに至った。
 この時、武器弾薬は押収された他、諸藩浪士との書簡や血判書が発見され、壬生屯所の前川邸にある蔵に閉じ込められて、新選組局長・近藤勇、副長・土方歳三から直々に厳しい取調べを受けたと言う。
 拷問により、長州藩が御所に火を放ち、中川宮を幽閉する他、京都守護職・松平容保らを殺害し、天皇を長州へ連れ去ろうとしていると自白したともされるが、自白には応じていないとする説もある。

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 いずれにせよ、新選組の池田屋事件にて宮部鼎蔵や吉田稔麿ら多くの志士が命を落とした。

 古高俊太郎は六角獄舎に収容されていたが、1864年7月20日、禁門の変にて付近にも火災が延焼してくる。
 そのため、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、他の囚人32名とともに斬首された。享年36。

 処刑は20日の午後2時頃から始まり、3時間にわたって行われたと言う。
 さすがの会津容保も、驚いて町奉行所役人らを叱ったとされている。

 

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