松前ブローウニンの幽閉地と高田屋嘉兵衛~蝦夷・松前の徳山館跡にある史跡とゴローニン事件


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高田屋嘉兵衛(たかたや-かへえ)(1769年1月1日~1827年4月5日)は、江戸時代後期に蝦夷地・箱館にて活躍した廻船商人です。
もともとはも淡路島の百姓の生まれ、22歳のときに兵庫津にて船乗りになりました。
すると船の進路指揮などでメキメキと頭角を現し、やがて自分の北前船「辰悦丸」を所有するまでになります。
そして、弟・嘉蔵と共に廻船屋として蝦夷(北海道)に進出します。

しかし、当日、蝦夷を支配していた松前藩は、古くから近江商人などと取引しており入り込む余地がなかったため、高田屋嘉兵衛はまだ未開の地であった「箱館」を拠点とし、弟の金兵衛を箱館の支配人にしました。
そして、箱館から国後島・択捉島間の航路を開拓し、箱館から酒田の間を行き来して、択捉島ではアイヌ人に漁業を教えて17か所の漁場を開き、魚介類の交易を中心に廻船業で巨額の財を築き、箱館(函館)の発展に貢献して行きます。

なお、択捉の発見と開拓の功により、33歳のときに高田屋嘉兵衛は江戸幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された他、大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられており、更に財を成していきます。

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1807年には箱館港に造船所を設けて、船の建造も開始しました。

なお、このころ、ロシア船も蝦夷に出没するようになっており、1805年にはロシアのレザノフが樺太に来航し、1806年にはフヴォストフというロシア人が樺太で日本人(和人)に暴行を働く事件が発生しており、ロシアとの間でいざこざが続いていました。
そしてついに大きな事件が発生します。

文化8年(1811年)5月、軍艦ディアナ号の艦長で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー・ゴローニンが国後島の泊港に入港します。
このとき、フヴォストフ事件の報復のため厳戒態勢を敷いていた国後陣屋の支配調役・奈佐瀬左衛門らが食事の接待をし、そのあとゴローニンら約6名を捕えて、縄で縛ったまま徒歩で陸路を約2ヶ月かけて松前に護送され、ゴローニンらは幽囚の身となります。
この「騙し討ち」によりロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになりますが、このゴローニンと言う人物が、ブローウニンでして、徳山館跡となる現在の徳山大神宮の敷地(トップ写真)が、その幽閉場所であったと言う事になります。
ただし、最初はある程度行動の自由はあったようで、監視付きながらも散歩も許可されており、城下の武家屋敷に住んでいたと言います。
しかし、脱走して捕まってからは、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢の牢獄に入れられたと言う事になります。

なお、ロシアに興味があった間宮林蔵は、度々、牢獄を訪問し、鍋や酒を振る舞ったとも言います。

ディアナ号の副艦長ピョートル・リコルドはオホーツクに戻るとゴローニン救出のために動きます。
シベリアに送られていた良左衛門や、1810年にカムチャツカ半島に漂着していた摂津国・歓喜丸の漂流民らを、人質交換のような形で、ゴローニン救出のため国後島に届けます。
しかし、松前奉行調役の奈佐瀬左衛門は良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝え、ゴローニン救出は失敗しましたが、リコルドは亡くなったことを信じず、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと国後沖に留まっていました。

そこに通りかかったのが高田屋嘉兵衛の観世丸で、クナシリ沖でリコルドのジアナ号に停船を命じられたのです。
高田屋嘉兵衛は、ジアナ号の船長室に連れ込まれましたが、少しも臆するところなく一方的な停船命令を非難します。
そして、ブローニン事件の経緯と、人質交換を目的とするロシア側の意図を知ると、これ以上日本とロシアの間が紛糾することを恐れ、従容としてロシア軍艦の人質を買って出ました。

こうして、高田屋嘉兵衛の身柄は、カムチャッカ半島東岸のベトロバウロスクに運ばれますが、見知らぬ異国の僻地で、ただひとり孤独な明け暮れを迎えながらも、少しも憂色を見せなかったと言います。
44歳の男盛り、荒波と潮見とに鍛えられ、これまでにも数多く体験してきた苦難が不凍不屈の精神を養い、全盛を迎えていた高田屋嘉兵衛は、ゆっくりと時間をかけてリコルドを説いていました。
日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと・・・。

そして、9ヶ月の人質生活のあと、ついにジアナ号はベトロバウロスクを出航して箱館に入港し、高田屋嘉兵衛は、カムチャツカの長官に任命されていたリコルドを同行させて、1813年に松前奉行・服部貞勝に引き合わせます。
たった9ヵ月でしたが、ロシア語が上達していた高田屋嘉兵衛は、間に立って意志の疎通を計って「日露交渉」の立役者となり、一方では見聞きしてきたロシアの実情を語って、奉行を説得しました。
この努力が実を結び、1ヶ月後にゴローニンは箱館にて釈放されています。
そして、高田屋嘉兵衛たちが見送る中、ディアナ号が箱館を出港し、ゴローニン事件が終結しました。
ゴローニンは松前での2年余にわたる拘禁生活を「日本幽囚記」として書き残していますが、のち各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料として当時評価されました。

高田屋嘉兵衛は理由はどうあれ、外国帰りで国禁を犯しており、しばらく罪人扱いされたと言います。
箱館では称名寺に収容されて監視を受けました。
しかし、翌年、松前奉行所に呼び出されると、日本国外に出国したのはロシア船に拿捕されたためであり、きちんと帰国したことが認められて無罪となり、さらにはゴローニン事件解決の褒美として、徳川幕府から金5両が下賜されています。

50歳を過ぎた高田屋嘉兵衛は兵庫に戻り、更には淡路島で余生を過ごしていますが、淡路島でも灌漑用水工事や、都志港・塩尾港の整備に財を投じました。
1826年には徳島藩主・蜂須賀治昭より、小高取格(300石の藩士並)待遇を受けています。



しかし、背中にできた腫物が悪化し59歳で死去しました。
明治に入ると北方開拓の功績を讃えられ、明治44年(1911年)に正五位、昭和13年(1938年)には開拓神社の祭神となっています。

下記は、函館市にある高田屋嘉兵衛銅像ですが、明治政府の要人かとも思わせるようなスゴク立派な銅像です。

ブローウニンの幽閉地は、松前の徳山館跡、現在の徳山大神宮の境内となります。
函館市の高田屋嘉兵衛銅像と含めて、当方のオリジナルGoogleマップにて正確な場所を明記致しております。

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