函館の地名の由来にもなった宇須岸館と河野政通~函館南部陣屋も

宇須岸館跡



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宇須岸館

宇須岸館(うすけし-やかた)は、宇須岸河野館、箱館(はこだて)とも呼ばれる館跡です。
土塁と堀を四方に巡らした「方形館」と箱の形をしていたことから、箱館と呼ばれることもあり、函館の地名の由来にもなりました。

なお、アイヌ語で湾の端を「ウショロケシ」と呼ぶため、このアイヌ語が「ウスケシ」ににる語源と考えられます。

1454年(享徳3年)に、安東政季(安東師季)に従った武田信広らが蝦夷に渡り、花沢館蠣崎季繁を頼ります。
この時、安東氏に同行していたとさける河野政通(河野加賀右衛門尉政通)が、宇須岸館を築いたと言われています。

河野政通(こうの-まさみち)の出自は不明ですが、伊予の越智氏の末裔を称したようで、伊予河野氏の一族とも推定されていますが、河野政通は主君・安東政季に従って東北の地にいたようです。
なお、別の説では承久の乱で、陸奥に流罪となった河野通信の孫・河野通重が、宇須岸に土着したともされ、この河野政通は後裔ともあります。


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そして、宇須岸館も道南十二館のひとつと数えられましたが、1457年、コシャマインの戦いにて、宇須岸館は陥落しており、河野政通は討死したとも、捕らえられたともされています。

1512年、再び蜂起したアイヌのショヤ・コウジ兄弟は、宇須岸館、志苔館、与倉前館の3つを攻め落としており、河野季通と言う武将が討死したとあります。
この時、父・河野政通と娘を逃がして、子の河野季通は自害したともされています。

この時逃れた、河野季通の娘は、大舘の蠣崎季広を頼っており、成長すると正室になって初代松前藩主となる松前慶広を産みました。

江戸時代になり、松前藩の亀田奉行所が、1741年に、河野館跡地に移転され、函館が再び栄え始めます。

幕末になってロシア船などが蝦夷地にやってくるようになると、箱館は再び注目を浴びるようになり1799年に蝦夷地は幕府の直轄領となります。
そして、1802年に蝦夷支配の江戸幕府代官が赴任して箱館奉行所が設置されます。

現在、函館の箱館奉行所と言うと、五稜郭の中にありますが、当初は、宇須岸館跡に箱館奉行所が建設されました。
箱館奉行は戸川安論と羽太正養の2名で、1年交代で赴任して政務に当たったと言います。

1864年に五稜郭が完成すると、箱館奉行所も移転しますが、その跡地が現在の元町公園と言う事になります。
旧箱館奉行所庁舎は、明治に入ると開拓使の庁舎となって発展に寄与しました。

そして、元町公園から一段下った市立函館病院の跡地に宇須岸館跡の説明板が設置されています。
元町公園の正面入口から階段を登った脇には、下記の箱館奉行所を示す木柱もありました。

箱館奉行所跡

ちかくには、函館元町宇須岸の館と言うソフトクリームがおいしい、元町でも古参のお土産物店もあります。

南部陣屋

函館には、箱館奉行所よりちょっと古い時代に「南部陣屋」(なんぶじんや)が置かれていましたので、南部陣屋跡に関してもご紹介したいと存じます。

北海道(蝦夷地)には、江戸時代後期になると、ロシア船が出没するようになります。
江戸幕府は蝦夷地(北海道)を初めて直轄した1799年、南部藩(盛岡南部藩)主・南部利敬と津軽藩の2藩に、箱館の警備を命じました。
この時、南部藩の陣屋がおかれたのが、函館・南部陣屋と言う事になります。



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現在の函館山ロープウェイ「山麓駅」専用駐車場で、最盛期で夏季350名、冬季150名の南部藩士が滞在していたと言いますが、建物は粗末な長屋が2棟あるだけで、湿気も多く、病人も出たと言います。

南部陣屋

1821年に蝦夷地が松前藩に返されると、南部藩も撤退しましたが、1854年、再び蝦夷が幕府直轄となり、1855年に日米和親条約によって箱館が開港します。
すると、幕府は1856年に箱館奉行所を宇須岸館跡に復活されましたが、このとき南部藩は函館山岬~恵山岬~幌別(登別市)までの沿岸警備を命じられたため、再びここに南部陣屋を置き300名が入りました。

なお、出張(でばり)と呼ばれる出張陣屋として室蘭にモロラン陣屋、長万部に南部藩ヲシャマンベ陣屋、森町に砂原南部藩屯所も設置しています。

戊辰戦争となると、榎本武揚ら旧幕府脱走軍の蝦夷地襲来の噂と政情不安から南部陣屋を焼き払い、イギリス人ブラキストンから調達した汽船に乗って南部へ帰っています。
このこともあり、南部藩主は新政府から叱られて、東京で謹慎となりました。



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明治に入ると、蝦夷地を北海道と改称され、北海道の入口となった函館は、日本でも有数の人口を誇る地方都市となります。
明治9年の統計では福岡よりも多い人口13番目の都市であり、大正9年には全国トップ9位とたくさんの人が住むまで発展しました。
そのため、石川啄木も仕事を求めてやってきたと言う事になります。

アクセス・行き方

宇須岸館跡と南部陣屋跡への行き方ですが、当方のオリジナルGoogleマップに場所を示しております。

蝦夷地探訪シリーズ

花沢館と蝦夷を統治した蠣崎季繁とは
武田信広の優れた知略と蠣崎光広~本拠地にした勝山館
蝦夷の志苔館と小林良景 コシャマインの戦い
徳山館・大舘~蠣崎光広(蠣崎光廣)と蠣崎季広
松前城の景観と松前慶広とは~福山館の戦国期と幕末期
松前ブローウニンの幽閉地と高田屋嘉兵衛~ゴローニン事件
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石川啄木って何をしていた人物? 函館・立待岬との関係も
盛岡城 哀愁漂う東北の日本100名城 訪問攻略法
蝦夷地の史跡巡り用「北海道観光オリジナルGoogleマップ」



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高田哲哉日本の歴史研究家

投稿者プロフィール

高田哲哉と申します。
20年以上、歴史上の人物を調査している研究家です。
日本全国に出張して史跡も取材させて頂いております。
資格は国内旅行地理検定2級、小型船舶操縦士1級など。

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