伊達邦成~北海道開拓の見本となった伊達一族の一大移住

伊達邦成

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伊達邦成(だて-くにしげ)は、幕末の1841年10月28日に、伊達義監の次男として生まれました。

この父の伊達家は、仙台藩の伊達氏一族で、一門としては第八席の岩出山伊達氏となります。
伊達邦成は次男であり、あとを継げる身ではありませんでした。
そのため、多くの子が夭逝していた、仙台藩一門の第二席・亘理伊達氏の伊達邦実(だて-くにざね)の娘・豊と結婚して養子とり、伊達邦成は23853石の亘理領主となりました。
亘理(わたり)と言う場所は、今でいう、宮城県の南部の沿岸部にある亘理町と山元町の辺りになります。



しかし、伊達邦成が当主となったころには、横浜港が開港し、大老・井伊直弼による安政の大獄が始まったころで、時代は混沌としていました。
そして、戊辰戦争となると、仙台藩主・伊達慶邦(だて-よしくに)は、当初、会津藩・松平容保などと連携して、奥羽越列藩同盟の盟主として、薩長らの新政府軍に抵抗しました。
降伏する際には、伊達邦成が新政府軍との交渉を務めています。

降伏して多くの人命は救われましたが、伊達邦成の所領は僅か58石となります。
数百名と言う多くの家臣を抱えていたため、家老・田村顕允(常盤新九郎)の進言もあり北海道移住を決意します。
常盤新九郎(田村顕允)は、新政府に掛け合い、自費移住しロシア警備も担うと言う事で、明治2年に明治政府より有珠郡支配の権利を獲得しました。
1870年(明治3年)から、開拓役所と支配所を設置して、家族と家臣ら約250名を連れて、北海道に移住を開始しました。
最終的には合計約2800名が移住しています。

移住先は胆振国の有珠郡、現在の伊達市と言う事になり、有珠山の麓です。
北海道では比較的温暖のぢて、積雪も少ない場所でした。

移住者の家臣には身分の1級格上げを約束する一方で必ず家族単位で移住させ、土地を平等に分け与えて、アイヌ人など先住民族には礼儀を忘れないようにと指示したと言います。
家族を連れて行くと言うのは、寂しさや辛さから逃げ出そうとするのを防ぐためと言われています。
最初の頃には食べる物にも困り、アイヌ人から漁業を教わったりもしたとされています。

仙台藩主・伊達慶邦の妹であるお姫様、貞操院保子(ていそういんやすこ)も移住に参加しています。
ただし、領主だった家柄と言えども、資金が足りず、家財道具や先祖代々の茶器などを売り払ってその費用にあてたと言います。
この伊達保子は、伊達邦実の正室ですので、伊達邦成の養母と言う事になり、北海道でも旧家臣らを支えたと言います。

こうして、日の出から日没まで1日16時間働くなど幾多の困難を乗り越え、未開地を開拓しては安住を手に入れますが、更には畑の土を掘り起こす際には「馬」を使うなどして、農業の効率化も図りました。
さらには、仙台の工芸品生産技術や藍染めを持ち込み、現在では藍染めは北海道で伊達市が唯一となっています。

これら伊達邦成の施策は、黒田清隆ら新政府が北海道開拓を行う際の見本となりました。
明治25年(1892年)、開拓の功績により、伊達邦成は勲四等瑞宝章を受勲し、男爵に叙せられています。



他にも北海道開拓における苦労話はたくさんありますが、現在の日本の大切な食料生産地も、先人のこのような大きな苦労があったからこそ、我々もポテトチップスやバターなど、たくさんの恩恵を受けているのではないでしょうか?

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