正岡子規とホトトギス~日本を代表する俳人の生涯

正岡子規



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正岡子規

正岡子規(まさおか-しき)(本名:正岡常紀規)は、慶応3年(1867年)に伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)にて生まれました。
幼い頃から漢詩に親しみ、小学生の時には友達と回覧雑誌を作っていました。
俳人としての片鱗がこの頃から見えていますね。


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13歳の時に東京大学予備門(東京大学に入学する前の予備機関)を受験するために上京し、翌年に入学を果たしました。
予備門に入学した頃から俳句を始め、雑誌に自作の俳句が掲載されるようになりますが、21歳の時に突然喀血します。
肺結核でした。
「子規」とはホトトギスの漢字表記。
子規は多くのペンネームを使用しており、その数はなんと54個。
「子規」というペンネームはちょうどこの頃に使い始めました。
子規は口の中が真っ赤で、血を吐いて鳴いているようだと言われるホトトギスと喀血する自身を掛けて「子規」というペンネームを使用したのです。
肺結核に罹ったことを悲観するのではなく、機転を利かせてペンネームにしたのですね。
明治23年(1890年)に帝国大学(東京大学)哲学科に入学しますが、わずか2年で退学。
その後は日本新聞社に入社します。日清戦争が始まると、従軍記者として戦地となった中国の遼東半島に渡ります。
身体のこともあったため、医者や新聞社の同僚は反対しましたが、子規はそれを押し切って出発しました。
しかし子規が遼東半島に上陸した2日後に休戦の講和条約(下関条約)が締結されたため、すぐに帰国することになります。
子規はこの時の心境を『大砲の音も聞かず弾丸の雨にも逢はず腕に生疵一つの痛みなくおめおめと帰る…』と記しています。
船で帰国の途に着いた子規ですが、船内で再び喀血。重体の状態で神戸病院に入院します。
明治28年(1895年)、28歳の時でした。
一時は危篤状態に陥りましたが、回復し始め、入院から2か月後に退院しました。

親友・夏目漱石

正岡子規は尾崎紅葉、高浜虚子、森鴎外など、多くの小説家や俳人達と親交がありました。
その中でも特に仲が良かったのが、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』などで知られる夏目漱石でした。
2人は東京大学予備門の同級生。同い年で落語が好きという共通点があり、親しくなりました。
ちなみに夏目漱石の「漱石」はペンネームですが、実はこれは子規の数あるペンネームの中の1つでした。
自作した漢詩を評価し合うなどして、青春期を共に過ごした2人。
漱石は真面目な優等生で、どの科目においても主席でしたが、子規は違ったようです。
漱石によると子規は平気で学校を休み、試験前には漱石に授業のノートの内容を聞いて「よしよし、分かった」などと言っていたとか…。

子規は大学を中退しましたが、漱石との親交はその後も続きました。
子規は上述した神戸病院から退院後、地元である松山でしばらく療養していました。
ちょうど同じ頃、なんと漱石が松山中学校に英語教師として赴任してきたのです。
漱石は自身の下宿に子規を招き、2人はそこで約2か月間、同居しました。
この同居期間中に漱石は子規に俳句の弟子入りをします。小説家・漱石ですが、実は作家としての活動は俳句からスタートしていたのです。
同じ屋根の下、2人は毎日のように句会を開きました。

この同居生活を経て、子規は東京に戻り、創作活動を再開します。俳句雑誌『ホトトギス』の創刊、今までの歌論を打ち破る自身の歌論を綴った『歌よみに与ふる書』の発表。
また、病床でも高浜虚子や長塚節といった後輩俳人の指導・育成にも力を注ぎました。

一方の夏目漱石は、帝国大学を主席で卒業した成績を認められ、文部省からイギリス留学を命じられました。
漱石はイギリスから、『ホトトギス』に自身が見たロンドンの様子などを書いた『倫敦消息』を寄稿しました。子規は漱石への手紙に「君の手紙を見て、西洋へ行ったような気分になって愉快でたまらない」と書いています。
日本とイギリスという、離れた場所にいても2人の友情はあり続けました。



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正岡子規の最後

しかし明治34年(1901年)、34歳の時に病状が悪化。
子規が漱石に宛てた手紙には「僕はもうダメになってしまった…。君に再会することはできないと思う。」と書いています。
正岡子規は漱石のロンドン滞在記を楽しみにしていましたが、この頃、漱石は神経衰弱に罹ってしまい、手紙を書く余裕がありませんでした。
そして1年後、子規は手紙に書いた通り、漱石と再会することなく、息を引き取りました。

夏目漱石は子規が亡くなった翌年に帰国。帰国後も神経衰弱が完治することはありませんでした。
そんな漱石に声をかけたのが子規の弟子で『ホトトギス』を引き継いだ、高浜虚子でした。
虚子は漱石に気分転換に小説でも書いてみないかと提案します。その提案から誕生したのが、あの『吾輩は猫である』でした。
『ホトトギス』で連載が開始された『吾輩は猫である』は人気を博し、第11回まで連載されました。
気分転換で書き始めた作品ではありますが、漱石にとって、子規との思い出が創作のパワーになっていたかもしれません。

野球の普及にも貢献した正岡子規は、35歳という若さでこの世を去りました。
また、当時の俳句界に新しい風を吹かせた彼の功績は、後輩の俳人達に引き継がれ『ホトトギス』は今なお、刊行されています。

(寄稿)中みうな

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中みうなWebライター

投稿者プロフィール

歴史学科卒業。専攻は明治の外交・文化、お雇い外国人など。
日本キリスト教史や出島などの長崎の歴史も。
2017年よりライターとして活動。日本の歴史を中心にWebメディアで執筆。歴史初心者の方にもわかりやすく、印象に残る記事を目指しています。

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